意外!豊臣秀吉が「徳川の時代に大人気」だった訳 戦国武将のイメージは現代とは大きく異なる

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頼山陽の『日本外史』(1827年)は、よりいっそう、豊臣秀吉賞賛へと傾斜している。もし秀吉が女真族に生まれていたら、愛新覚羅氏(清国を建てた女真族の氏族)の前に明国を滅ぼしていただろう、と説き、秀吉の雄才大略は、秦の始皇帝・漢の武帝を超えていると論じた。

もっとも頼山陽は賞賛一辺倒ではなく、朝鮮出兵による国力の浪費が豊臣家滅亡につながったとも述べ、万里の長城をはじめとする大土木事業の結果、二代で滅亡した秦との類似性を指摘している。ただ、国力の浪費うんぬんは『甫庵太閤記』の受け売りであり、頼山陽の主張の力点は秀吉顕彰にある。

頼山陽が豊臣秀吉を賞賛する前提には、秀吉を「勤王家」と捉える理解がある。文禄の役の後、明との間で講和交渉が行われるが、明は秀吉に対して「日本国王」に任命するという国書を送り、秀吉は激怒する。

「自分は実力で日本を統一したので明の皇帝から任命されるいわれはない」と秀吉が述べるくだりは『豊臣秀吉譜』以来見られるものだが、『日本外史』はさらにセリフを追加している。「吾にして王とならば、天朝を如何せん」と。ちなみに、このセリフは近代の国史教科書にも掲載され、人口に膾炙した。

すなわち『日本外史』によれば、豊臣秀吉は、天皇を差し置いて自分が日本国王になることは不敬であると認識し、天皇を無視した明国の無礼をとがめたことになる。おそらく頼山陽の創作と思われるが、こうして「勤王家」としての秀吉像が形成されていく。

尊皇攘夷の魁として豊臣秀吉

幕末に尊皇攘夷運動がさかんになると、尊皇攘夷の魁(さきがけ)として豊臣秀吉が評価されるようになる。

尊皇攘夷の志士に多大な影響を与えた長州の思想家である吉田松陰は、モンゴル帝国(元)と戦って捕らえられた南宋の忠臣である文天祥が獄中で詠んだ漢詩「正気の歌」にならって、憂国の詩「正気の歌」を詠んだ。

そこには「墓には楠子の志を悲しみ、城に豊公の烈を仰ぐ」という一節がある。湊川に水戸光圀が建てた楠木正成の墓の前で正成の忠節に涙し、大坂城を眺めて豊臣秀吉の偉業を思う、といった意味である。

秀吉が南朝の忠臣である楠木正成と並べられており、秀吉が勤王の士と位置づけられていることは明瞭である。ここで松陰が念頭に置いたのは、やはり朝鮮出兵であろう。

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