意外!豊臣秀吉が「徳川の時代に大人気」だった訳 戦国武将のイメージは現代とは大きく異なる

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江戸時代には多くの朝鮮征伐記もの(朝鮮軍記物)が執筆されたが、それらは基本的に、日本軍の局地的戦闘での勝利をクローズアップし、戦争全体における敗北には積極的に言及しなかった。

一例を挙げると、軍学者の宇佐美定祐が著した『朝鮮征伐記』(1662年)は、著者自身が述べているように、「秀吉公の奇計・智謀」を顕彰することを目的としていた。こうした朝鮮征伐記ものの影響を受けた『絵本太閤記』も、加藤清正をはじめとする日本軍の奮戦を特筆する。

これらの書物を参考にした講談・浄瑠璃・歌舞伎も同様である。近松門左衛門の浄瑠璃『本朝三国志』(1719年初演)に至っては、加藤正清(加藤清正)が遼東大王(朝鮮国王)を生け捕り、大王が土下座して命乞いをするなど、歴史的事実と懸け離れた場面を創作している(厳密に言うと「男神功皇后」という劇中劇での場面)。

こうした芸能に接した江戸時代の庶民の間では、文禄・慶長の役が負け戦だったという認識は薄かった。そのことが、朝鮮出兵を肯定する意識、さらには秀吉人気につながったと考えられる。

本居宣長から見ると朝鮮出兵は偉業

日本の儒学者は儒学の本場である中国に憧憬の念を抱いている。したがって彼らは、中国に戦争を挑んだ文禄・慶長の役に対して否定的感情を持っている。

こうした中国中心の価値観を批判したのが国学である。国学は、日本の古典を研究することで儒教・仏教渡来以前の日本独自の思想を発見することを目指す学問である。

国学の四大人の1人とされる本居宣長は、江戸時代以前の日本外交史をまとめた歴史書『馭戎慨言』を寛政8(1796)年に発表している。宣長によると、これまでの日本外交は弱腰すぎるという。天照大神の子孫である天皇が統治する日本こそが世界の中心であるべきで、中国や朝鮮のような西戎(西方の野蛮国)を服属させなければならないのに、その目的を達成できなかったと慨嘆している。

本居宣長は中国崇拝や儒教的思考を「漢意」と呼んで批判したが、この主張は中国の華夷思想を反転させた日本型華夷思想にすぎない。それはさておき、宣長の立場から見ると、朝鮮出兵は「皇大御国のひかりをかがやかし」た偉業ということになる。

宣長は天明7(1787)年に刊行した『玉鉾百首』で「まつろはぬ 国等ことごと まつろへて 朝廷きよめし 豊国の神」と詠んでおり、朝鮮出兵を勤王精神の発露と解釈していた。

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