「大久保利通」人生初の欧米視察で急に絶望した訳 「岩倉使節団」で生まれたさまざまな軋轢とは?

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5月21日、駐日ドイツ公使のフォン・ブラントが、帰国途中にワシントンに立ち寄ると、木戸らの使節団と面会。そこで初めて、木戸や岩倉は、日本が諸外国との条約において取り決めていた「片務的最恵国条項」の意味を知る。

この条項があるばかりに、日本は条約締結国のいずれか一国との間で、ある取り決めをしたら、それがほかの国にも認められることになってしまう。つまり、アメリカに譲歩したならば、他国にも同様の権利を求められることになる。

各国別個に談判できないことを知り、木戸は愕然とする。岩倉はこう叫んだという。

「それは最も重大な事件だ!」

木戸は「森や伊藤に盲従したら、大事なことを錯誤してしまう」と警戒。また「治外法権を廃止して、関税自主権の回復をし、不平等な条約を撤廃しよう」などとアメリカが考えてくれるわけもない、ということもよくわかった。

戻ってきた大久保と伊藤は完全な無駄足に

明治5年6月17日、大久保と伊藤が天皇から委任状を携えて再びアメリカにやって来るが、そのときには、使節団は改正の交渉を打ち切ることを決定。大久保と伊藤は完全に無駄足を踏むこととなった。

条約改正が不調に終わった使節団だが、収穫がなかったわけではもちろんない。最初に到着したホテルでは、シャンデリアの輝きに目を奪われた。エレベーターや水道など近代的な施設は、日本の手本になるべきものだ。木戸は学校や教会、博物館なども丁寧に視察していたというから、どうにも彼らしい。

何もかもが日本とは違う。文明の差をまざまざと見せつけられながら、一行はボストンを発ち、イギリスのリバプールへ入港する。

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