「大久保利通」人生初の欧米視察で急に絶望した訳 「岩倉使節団」で生まれたさまざまな軋轢とは?

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使節団はその間、アメリカで足止めを食った。無為な月日は、実に4カ月にもおよんだ。この状況に苛立ったのが、木戸である。いつでも緻密に先を見通す木戸からすれば、行き当たりばったりの展開に、すでに嫌気が差していた。アメリカに着いて2カ月の段階で、こう日記に書いている。

「使節団への参加を打診されて、引き受けたことは一生の誤りだった。今さらひどく後悔している」

このころ、木戸は後輩の伊藤博文に不信感を抱いていた。不平等条約の改正に積極的なのはいいが、伊藤はアメリカの要望を丸のみしようとしていた。開港場数の増加、居留地の廃止、雑居の承認、輸出税の廃止……。

それこそが日本の開化を示す方向だという。しかし、それは外国人を喜ばせるだけではないか。もちろん、アメリカを喜ばせることで、関税自主権の確保や領事裁判の撤廃をしようという算段だろうが、向こうの希望のみが叶う改正案になりはしないかと、木戸は危惧していたのである。

木戸孝允は森有礼を「きゃつ」と呼んで軽蔑

伊藤と同じく改正に積極的だったのが、少弁務使(駐米公使)の森有礼である。もともと現地にいた森は岩倉使節団を出迎えて合流。伊藤とともに「アメリカの希望に沿った条約の改正こそが、日本の開化を示すチャンス」としていた。

だが、木戸は何かと使節団を仕切りたがる森のことも気に食わない。木戸は森のことを「きゃつ」と呼び、露骨に軽蔑した態度をとっている。

条約改正をいかに進めるべきか。日本に戻った大久保と伊藤が再びアメリカに来るまでの間、使節団ではさまざまな議論が行われた。だが、そこで新たな事実が発覚する。

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