「大久保利通」人生初の欧米視察で急に絶望した訳 「岩倉使節団」で生まれたさまざまな軋轢とは?

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岩倉使節団。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通(写真:Alamy/アフロ)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第34回は、人生初の欧米視察となった「岩倉使節団」での大久保の胸中に迫ります。
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<第33回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しに。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫る。その後「生麦事件」という不測の事態が襲うが、実務能力の高さをいかんなく発揮し、薩英戦争でも意外な健闘を見せ、引き分けに持ち込んだ。
勢いに乗る薩摩藩。だが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、大久保は倒幕の決意を固めていく。閉塞した状況を打破するため、島流しにあっていた西郷の復帰に尽力。西郷は復帰後、勝海舟と出会い、長州藩討伐の考えを一変。坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結んだ。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷。ところが慶喜が打った起死回生の一策「大政奉還」に困惑。さらに慶喜の立ち回りのうまさによって、薩摩藩内でも孤立してしまう。
一方、慶喜もトップリーダーとしての限界を露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かける。

岩倉具視を全権に担ぐべく動いたのは大久保利通?

明治4(1871)年11月12日、岩倉使節団は横浜港から欧米巡遊へと出発した。全権大使は右大臣の岩倉具視である。集合写真ではみなが洋装するなか、岩倉だけがまげを結い、羽織袴を着て、ずいぶんと目立っている。それでいて、履物だけは革靴だ。

このときに岩倉は47歳。新しい時代にどこまで対応すべきなのかという葛藤が見て取れる。ちなみに、アメリカに到着後、岩倉はシカゴで散髪に行き、晩餐会では洋装に着替えている。

岩倉を全権に担ぐべく、動いたのは大久保利通ともいわれている。廃藩置県を行った直後の混乱期にもかかわらず、大久保は将来を見据えて海外の視察を望んだ。自らトップに立つのではなく、誰からも文句が出ないであろう岩倉を全権に選んでいるのは、大久保らしい嗅覚だろう。

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