「大久保利通」人生初の欧米視察で急に絶望した訳 「岩倉使節団」で生まれたさまざまな軋轢とは?

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名目上、日本政府の宰相は太政大臣の三条実美だが、岩倉よりはるかに高い門地への嫉妬もあった。そのうえ、三条は長州寄りだったため、薩摩藩からの反発が上がりかねない。大久保が岩倉を全権に担いだのは、そんな背景もあった。

一方、大久保自身は副使につき、参議の木戸孝允も巻き込むことにした。木戸は物事に慎重で、先見性があるがゆえに不満を抱きやすいところがあった。そんな木戸を留守政府に置くことへの懸念もあったに違いない。現に、アメリカに着いてすぐに木戸は使節団への不満を持つようになる。

そのほか工部大輔の伊藤博文、外務少輔の山口尚芳が副使を務め、書記官が2人、大使随行官が6人、理事官が6人、そして理事官への随員が同行し、総勢46人の使節団となった。さらに使節団には、43人の留学生も同行している。うち5人が女子留学生であり、最年少は6歳の津田梅子だ。

この力の入れようから、岩倉使節団は日本が欧米に追いつき、追い越すための、まさに一大プロジェクトだったことがわかる。それがまさか、到着早々から「大きな忘れ物」に気づき、日本に取りに帰る羽目になるとは思わなかったことだろう。

「全権委任状の不備」という痛恨のミス

12月6日にサンフランシスコに到着した一行。翌年1月21日にワシントンに入ると、いよいよ外交を本格化させていく。各地での歓迎ぶりに感激しながら、使節団には、こんなムードが漂っていた。

「この感触だったら、不平等条約の改正まで一気にいけるんじゃないか」

使節団は、アメリカ国務長官のハミルトン・フィッシュに会うと、改正のための話し合いの場をもうけてほしいと希望した。

ところが、である。大久保と伊藤はすぐにトボトボと日本へと帰国を余儀なくされている。交渉にあたって、アメリカの国務長官から全権委任状の不備を指摘されたからだ。

アメリカからすれば、日本の代表であることがわからなければ、交渉のしようがない。いったん帰国し、天皇の委任状を得なければならなくなってしまったのである。

次ページその間、使節団はどうした?
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