源義経、わずか500騎で木曽義仲に勝てた納得の訳 源氏同士で戦った「宇治川の戦い」の内情
一方の木曽義仲の軍勢はこのとき、1000騎あまりだったと言われる。さらにこのときには、叔父の源行家をはじめ、多くの者が義仲軍から離反していた。叔父の行家は河内国で反旗を翻す。よって、義仲は家臣の樋口兼光を討手に遣わすなどしている。そのため、義仲は軍勢を割かねばならなかった。義仲本軍はさらに弱体化していったのだ。
弱体化する義仲軍に比べて、義経の軍勢は膨らむ一方だった。古典『平家物語』によると2万5000の軍勢にまでなったといわれる。軍記物は軍勢数を誇大に記すことが多いので、さすがに2万5000の軍勢ではなかっただろう。とはいえ、義仲軍を超えるほどの軍勢にはなっていたと推測される。こうした軍勢の差が、義仲が敗れ、義経が戦に勝利した大きな要因だったと思う。
宇治川を渡るか、迂回するか、で悩んだ義経
1184年1月20日、宇治川の戦い。戦いを控える義経の様子を古典『平家物語』は次のように描いている。
「さて、源義経は、川端に進み出て、水面を見渡し、他の武将たちの心のほどを試してみようと思われたのか「どうしたものか。淀、一口(いもあらい)へ迂回するべきか。それとも、水かさが減るのを待つか」と言われた」(『平家物語』を筆者が現代語訳)
源義経軍は、伊勢・伊賀と進み、南山城から宇治川に出る。『平家物語』には、宇治川に出た義経が、山々や谷に降り積もる雪が溶け、水かさが増している川を渡るのを迷う場面が登場する。
しかし、時はまだ1月下旬、雪や氷が溶けて河に流れ「滝の落ちるようにひびきをたて」ることはまだあるまい。この描写は事実ではないが、戦を前にした武将たちの緊迫感を描くのには適しているだろう。
夜は明けてはいるが、霧が深く立ち込め、馬の毛色や鎧の色も判別できないなか、義経は「迂回するべきか、水かさが減るのを待つか」悩むのである。すると、畠山重忠(武蔵国の武士)が進み出て「いかに待とうと、水は引きますまい。また、橋も誰がかけて渡すでしょうか。治承の合戦のおり、足利忠綱は鬼神であったから、ここを渡れたというのでしょうか。この重忠が瀬踏みしてご覧に入れましょう」と言うが早いか、渡河の準備を始める。
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