納品されたばかりのスーツに袖を通した50代の会社経営者は、あまりの着心地のよさに「何これ? こんなに違うの?」と驚き、子どものようにその場でスキップを始めた。
「一度は着てみたかったから、定年退職の記念に」と一着90万円のスーツをオーダーした会社役員は、納品の2日後、少し照れくさそうな様子でもう一着、注文した。
「バーで、右手でほお杖を突いて酒を飲んでいるときに格好良く見えるスーツを作って欲しい」とオーダーした、左腕が不自由な紳士は、パリのバーで「何十年もリハビリをしてきたけど、今、こうやってあなたのスーツを着て酒を飲んでいるのがいちばん幸せだ」とつぶやいた。
3人のスーツは、ひとりの男が仕立てた。鈴木健次郎。2013年8月、弱冠37歳にしてパリの8区に自分の名前を冠したオートクチュールのメゾン「KENJIRO SUZUKI sur mesure PARIS」を開いたテーラーだ。
いっさい広告を打っていないにもかかわらず、鈴木の顧客の国籍は9カ国に及ぶ。1着約60万円からという高級スーツの何が人々の心をとらえるのか? その答えはスーツの細部に宿る。
どうしても表現できなかった「残り1割」
中高生でファッションにのめり込み、その頃から服を作る仕事を志していた鈴木。メンズファッション専門学校を卒業後には30倍の倍率を突破して某人気ブランドのパタンナーとして就職したが、その会社をわずか4カ月で辞めている。その理由は「デザインが違うのに、全部同じ顔に見えたから」。
当時から「これだけモノがあふれている世の中で、なぜ服を作るのか。ありきたりのものを作るなら意味がない。自分にしかできない存在する価値のある美しい服を作りたい」と強く思っていた鈴木にとって、そのブランドの製品は物足りなかったのである。
鈴木がパリを目指したのも、理想を追求するためだった。
仕事を辞めてしばらくした後、22歳の鈴木はある女性デザイナーに声をかけられ、ともに働き始めた。その女性のデザイン画を見て才能に惚れ、デザイナーのイメージを自分なりに解釈してパターンに起こすモデリスト、クチュリエ(縫い子)を務めることになった。
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