しかし、日本で感じた「どうしても表現できない残りの1割」の原因がカッティングの技術にあると自覚していた鈴木は、テーラーの中でトップに立つカッターになることしか考えておらず、オーナーには「カッターをやりたい」とことあるごとに伝えていた。
カッターは「お客様と話して要望を聞き、生地を見せて選び、採寸してパターンを作って仮縫いし、その後、縫い子に渡す」というテーラーの顔的存在だ。その地位に自分を起用して欲しいという鈴木のアピールは、裏目に出た。暖簾に腕押しの状態で2年が経ち、ある日、鈴木が改めて直談判に行くと雇い主は予想外の言葉で訴えを退けた。
「パリはアジア人に対する差別がまだあるから、ケンが一流のメゾンでカッターになったら、フランス人の客は全部いなくなるよ」
パリにきて初めて感じた無力感
アジア人だから無理と言われて、鈴木は打ちのめされた。アピエソールの仕事をしながらカッターを目指した2年間の努力が、生まれた地域、あるいは肌の色で否定されたのだ。支えになっていた父親が同時期に他界したということもあり圧倒的な無力感に襲われ、パリに来て初めて弱気になった。「もう、帰ろうかな」。
ここで手を差し伸べたのが、A.I.C.Pの校長だ。何の後ろ盾もなくパリに乗り込んできた鈴木の技術と熱意に心を動かされ、卒業後も連絡を取り合っていた校長は、鈴木の苦境を知ると卒業生がディレクターを務めるメゾンに、8カ月間、「鈴木をカッターにしてくれ」と電話を掛け続けたのである。ディレクターはある意味、校長に根負けして鈴木を面接に呼んだ。そのメゾンのカッターが高齢で、たまたま引退間近だったという幸運も重なった。
面接の日。パリのテーラーの長い歴史の中でアジア人のカッターは皆無という現実があるなかで、自信がなさそうなアジア人をカッターとして雇う理由はない。鈴木は緊張を感じながらも日本人らしい謙虚さを捨て、自分にできることを最大限アピールした。
その結果、人種の壁を突破。
そのディレクターが働く、世界中の王族や富裕層がオートクチュールのスーツをオーダーするフランス随一の老舗高級メゾン「フランチェスコ スマルト」で、ベテランカッターの後継者として採用されたのである。
それから1年後にベテランカッターが引退すると、2008年9月、鈴木は若干31歳にして職人35人を率いるチーフカッターに就任。パリのテーラー業界で、アジア人初のカッターとして歴史に名を刻んだ。
校長の尽力もあり、いきなりパリのトップテーラーでチーフカッターの座を手に入れた鈴木だが、浮かれたり、安堵している余裕はなかった。鈴木の抜擢を面白く思わない職人たちとの闘いの日々が始まった。
勤務時間中に面と向かって中指を立てられる。陰口を叩かれる。無視される。「出てけ!」と罵られる。世界の富豪を顧客に抱える最高級テーラーの舞台裏は壮絶だった。
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