やると決めたらとことん追求するタイプの鈴木は、「美しいものを作る」という思いを共有するチームで仕事に没頭した。ブランドの中心メンバーとして、やりがいも感じていた。しかし、しだいに焦燥感を募らせるようになっていた。自分が思い描く服を完璧に表現することができなかったからだ。
「1枚のシャツを、パターンの段階から24回作り直したこともあります。それでも結局、完成しなかった。そのとき痛感したのは、パターンを引くにしても8、9割まではできるけど、最後の詰めがすごく難しいということ。何をどうやってもうまくできなくて、物を作るってなんて苦しいんだろう、もう辞めたいって思ったときもありました」
もがいても、あがいても埋められない残りの1割。このままじゃダメだ、という危機感が日に日に増していった。
そうこうしているうちにブランド自体がうまくいかなくなり、アトリエも解散。手持無沙汰になった鈴木は、海外経験豊富だった女性デザイナーから話を聞いて以来、ずっと想い願っていたパリ行きを決意する。
パリ行きの資金を手っ取り早く貯めるために始めたのは風呂のリフォーム会社での訪問営業。給料が出来高制で、結果を出せば高給になるという単純な理由だっ た。営業は素人ながら猪突猛進型の鈴木はがむしゃらに働き、数カ月後には営業社員2400人中42位に入るような成績を収めるようになり、月に100万円を稼いだこともあった。
この仕事で貯めた300万円を持って、2003年の末、27歳の鈴木は妻とともにパリに飛んだ。この時、鈴木は心に決めていた。日本の服にまったく魅力を感じない自分がパリで学んで帰国したところで居場所はない。だから、もう日本には戻らない――。
パリの有名テーラーで縫製職人を務める
自ら退路を断った鈴木だが、パリに行ったところで何か当てがあったわけではなかった。
夫婦で貯めた資金にも限りがあり、タイムリミットが見えていた。それまでに鈴木が働き口を得ない限り、帰国せざるを得ない。数カ月だけ語学学校に通った鈴木は、パリで唯一、国家資格を取得できるパターンの学校「A.I.C.P(Academie Internationale de Coupe de Paris)」に入学すると鬼気迫る勢いで勉強し、高い評価を得て卒業。その後の就職活動で見事、パリの有名高級テーラーであるカンプス・ドゥ・ルカ(CAMPS DE LUCA)でアピエソール(縫製職人)の仕事を得る。
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