使い捨てといえば、誰でもパッと思い浮かべるのは前述のような「使い捨て製品」であろう。そもそも長く使うことなど想定していない製品。今ここにある弁当を食べる瞬間など「一瞬」だけピンポイントで活躍していただき、あとはポイということを前提として作られている製品。これまで書いてきたラップとかティッシュとかのいわゆる「消耗品」の類も、この範疇に入れていいかと思う。
でもですね、よくよく考えると、本当に考えなきゃいけないのはここじゃないんじゃないでしょうか。
今やわれわれの身の回りのものは、その実に多くが、というかもはやそのほとんどが「消耗品」「使い捨て」になっているんじゃないだろうか?
例えば、洋服、家電製品、車などは、古くなったら「買い替える」のがもはや当たり前である。それだけじゃない。時計や宝飾品などの、昔ならデパートの上のほうの階でうやうやしく売られていたものだってそうだ。
新しくてイケてる製品が出れば今使っているものはポイ。いやポイとせずとも、新しいものを手に入れれば古いものの出番は当然なくなり、そのうちどこぞの「家庭内エアポケット」にすっぽりと収まってその存在も忘れられていく。要するに実質的にはポイ捨てと何ら変わることのない扱いを受けるのである。
一昔前はこんなことはなかったのだ。着物や時計や万年筆などの高価なものは親が使っていたものを子が引き継ぐのは当たり前だったし、そもそも家電製品とか車みたいなフクザツな製品はなかったから、具合が悪くなったり流行遅れになったりすることもそうなかったに違いない。
そう考えると、現代とはプラスチックのストローとかフォークとかだけじゃなく、もっとでかくて頑丈な、あるいは小さくともキラリと光る宝石のようなありとあらゆるものも含めて「使い捨て」る社会なのである。言い方を変えれば、この「使い捨て」文化そのものが経済の原動力、つまりはわれらが社会をここまで成長させてきたエンジンなのだ。
昔はモノを長く大事に使っていた
そう考えると、「環境に優しい」社会なんてフンワリ言うのは簡単ですが、それを本当に実現しようと思ったら現代資本主義社会を根本から定義し直さねばならなくなる。社会がひっくり返るレベルの革命的変革だ。会社も個人も誰一人として無傷ではいられないだろう。
それだけのエネルギーがわれらにあるのかね……などと考えるとどうしたって未来は明るい気はしないわけですが、ま、そんな自分の力ではどうしようもないことをいくら考えたとて仕方がないのであって、ここで私が本当に言いたいのはそういうことではない。
私が言いたかったのは、この、今や常識となっている「使い捨て社会」は、日本の長い歴史から見れば、実はごく最近生まれた新奇なトレンド、ポッと出のニワカ常識に過ぎないということだ。われらが偉大なる祖先は、そんなことなどまったく常識でもなんでもない社会で長いあいだしっかりと生き延びてきたということを、今こそ多くの人が思い出すべきではないだろうか?
え、なんで今更そんな辛気臭いことを思い出さなきゃいかんのかって?
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