もう40年ほど前になる。1974年8月。松下幸之助が79歳のときである。私は、このころは、毎日のように松下に呼び出され、ほとんど夕方から23時ごろまで、側で仕事やら雑談をして過ごすことが常であった。もちろん、土曜日も日曜日も祝日もなかった。
土曜日、日曜日は、松下は、たいてい、住居代わりに過ごしていた大阪の守口市にある松下病院の一室から、兵庫県西宮市の自宅に戻っていた。当然、そのようなときも、私は西宮の自宅に出かけていた。
さほど大きな家ではなかった
自宅は、さほど大きな家ではなかった。ある時、某週刊誌のグラビアの誌面に「お金持ちの邸宅」とかという写真が掲載されたことがあった。ところが、田中角栄氏の家など多くのの邸宅がすべて空撮であったなか、松下の家だけは、門の写真であった。とても空撮に耐えられなかったからではないかと、いまでも思っている。
その庭の一角に、お茶室があった。松下は、お茶が好きで、裏千家の老分(顧問)をしていたほどだから、毎朝、必ず飲んでいた。その日も私が行くのを待って、一緒にそのお茶室に入った。お茶室のすぐ前の植木にヒヨドリが巣をつくっていた。ひなが三羽。松下は、着物を着ていたと記憶している。蝉の声がやかましかった。お茶は、松下幸之助がみずからたててくれた。黙々と二人でお茶を飲んでいた。
飲み終わると、いつもなら、「さあ、仕事、しようか」と立ち上がるのだが、そのとき、なかなか立ち上がらなかった。私も、そのまま座っていると、松下が次のようなことを話し出した。
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