松下幸之助の戦いは、94年6カ月で終わった 「お願いするのは、こちらです」

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松下幸之助が逝去したのは、平成元年(1989)4月27日だった(写真 : ヒロシ / PIXTA)
昭和の大経営者である松下幸之助。彼の言葉は時代を超えた普遍性と説得力を持っている。しかし今の20~40代の新世代リーダーにとって、「経営の神様」は遠い存在になっているのではないだろうか。松下幸之助が、23年にわたって側近として仕えた江口克彦氏に口伝したリーダーシップの奥義と、そのストーリーを味わって欲しい。(編集部) 

 

松下幸之助が逝去したのは、平成元年(1989)4月27日である。

1月10日の松下電器の経営方針発表会に車椅子で出席。話しはしなかったが、壇上に上り8000人の出席者にゆっくりと手を振った。会場からは熱狂的な拍手が起こり、振り返るとかなりの人が涙を流していた。

4月4日頃であったと思う。この日も報告に行った。同僚のY氏も一緒だった。

松下は、ベッドに横になっていた。私は、松下のそのころの状態を知っていたから、報告すべきこと、または経営状況などの資料を拡大し、松下が寝たままで報告できるように三枚のボードにして出かけた。しかし、松下は我々が制するのをさえぎり、みずからを鼓舞するように起き上がり、ベッドの傍にあるテーブルで報告を聞くと言う。

言葉は少なかったが、感謝に溢れていた

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起き上がってテーブルの椅子に座る。その表情は、気力で自分の容態と闘っている様子。すぐに引き上げようと思った。私は、「いや、経営は順調にいっていますのでご安心ください。要件はそれだけです。どうぞベッドにお戻りください。私どもは帰ります」と言って、Y氏と席を立とうとした。

すると、松下は持参したボードを黙って指さした。「聞こう」ということ。そこで、ボードをテーブルに載せ声を大きくして15分で報告を終えようと考えた。用意した報告、研究活動、出版活動などの報告を飛ばし飛ばし要点だけ説明した。その間松下は、食い入るようにボードを見ながら「うん、うん」と頷いていた。言葉はひとことも発しなかった。

最後に経営状況の報告。それは、私が経営を担当するようになってからの13年間の売り上げと利益の推移グラフ。前年、100億円強の売り上げ達成を報告した。報告を終えると松下は、初めて声を発した。

「きみ、PHPが、こんなに大きくなるとは思わんかった」

テーブルの上のボードを揃えながら、私は「ありがとうございます」と応じ、顔を上げて松下の顔を見ると松下の目から涙が流れていた。私に対する、松下幸之助のこの言葉が最期となった。

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