主治医は、松下記念病院の横尾定美院長。横尾院長は、松下幸之助の信頼の厚い先生であった。この先生が、松下逝去から9年後『心身一如……松下幸之助創業者に学ぶ健康哲学』を私的に上梓した。そこに、松下幸之助の最期の経過が、記されている。
「4月9日、依然37度台の微熱が続き、嚥下困難のため食事摂取が不良。11日頃からは、呼吸困難が出現、レントゲン所見も悪化。中心静脈輸液を開始するとともに、7人の医師と9人の看護婦で医療団を結成して医師は2交替、看護婦は3交替で治療に当たることにしました。
苦しい状況でも、なおも相手を思いやる人間性
この頃から、気管支分泌物が多くなり、喘鳴(ぜんめい)も強く咽頭からカテーテルを入れて吸引を繰り返すことが多くなりました。しかし、カテーテルを押入されることは苦しいことですから、できるだけ喀痰溶解剤の吸入などによって、自発的に喀痰を出すように努めました。創業者(=松下幸之助)の意識は傾眠状態とはいえ、比較的明瞭でした。17日にはアイスクリームを所望されましたが、噎(む)せてしまってだめでした。
20日頃のことです。いつものように責任者として看護していた島崎ひろみ婦長がうかがうと、創業者は黙って自筆の額を指さされたそうです。
婦長はその額には「忍耐」と書かれていることを知っていました。すぐに創業者の気持ちを察して、「そうです。苦しいでしょうが、“忍耐“で頑張ってください」と励ましたところ、うんうんというように頷かれたということです。
この頃から、肺の所見がますます悪化し、意識も辛うじて応答が可能(という程度)の状態となります。
25日のことだったと思います。依然として気管支の分泌物が多くそのため呼吸が苦しくなるため、吸引を頻回にする必要が生じました。
私が「痰をとるため管を入れます。すみませんがちょっとご辛抱お願いします」と申しますと創業者は声をふり絞るようにして、「いや、お願いするのはこちらです」とやっと聞き取れるかすれた声で答えられました。
「人の死なんとする、その言やよし」といいますが、苦しい臨終の床にありながらなおも相手を思いやる創業者の人間性に強く打たれたものでした。結局、この言葉が創業者の最期の言葉になりましたが、今でも脳裏に焼き付いている忘れることが出来ない一言です。
27日早朝からは意識が低下して、問いかけにわずかに頷く程度となられました。島崎婦長が創業者の口元がかすかに動くのを見て、「お水ですか」と声をかけながら、ガーゼで水を含ませると二口、三口、おいしそうに飲まれました。午前10時6分、左右からご家族に手を取られながら創業者は静かに息を引きとられました」
松下幸之助の人生の戦いは、94年6カ月で終わった。戒名は釈真幸。
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