人間的な判決には、教養が問われる
山折:正義というテーマで、最後に取り上げたいのが、2001年に大阪の池田小学校で起きた、宅間守による小学生殺しです。
そのときの精神鑑定をしたのが、岡江晃さんという、京都大学医学部出身の精神科医の方です。最近、岡江さんが宅間守の精神鑑定書を全部公表していたので、読んでみました。その本には、宅間の犯罪歴が記されていて、毎年のように傷害事件を起こしています。そこで、岡江さんが下した診断が、なんと「情性欠如」というものでした。
もし重度の統合失調症という鑑定をすると、死刑にできなくなる。しかし、それでは世間が納得しない。したがって、致し方なく、「情性欠如」という結論を出したという意味のことを、間接的に書かれていました。
こうした矛盾をどう乗り越えるか。これは永遠の矛盾であり、これを超えるのは、法を超える何かですね。神やドストエフスキーの世界がそこに出てくるのではないでしょうか。法を超える文学、宗教の問題としてとらえないと、こうした凶悪事件は最終的には裁くことはできません。その意味で、裁判官は法律の限界を知るべきですし、限界を知ったうえでの人間的な判決が要求されています。そのためにも、教養が問われるのではないかと私は思っています。
私が思う日本の法律や法律家の問題は、「日本には、正邪善悪を超える、神のような超越的な価値がない」ということに無自覚なことです。われわれ全体の知的な問題を考える態度と言ってもいいかもしれません。われわれ自身の教養の根本の問題です。
滝鼻:そうですね。
山折:あれほど明治以降、たとえばドストエフスキーの世界に親しみ学び、思索を深めてきたはずの日本の知的伝統が、今、揺らいでいる、ぐらついている感じがします。
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