ジャーナリズムが追うべき“正義”とは何か 山折哲雄×滝鼻卓雄(その4)

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滝鼻卓雄(たきはな・たくお)
1939年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、読売新聞社に入社。論説委員、法務室長、社会部長、総務局長などを経て、2004年1月に読売新聞東京本社代表取締役社長兼編集主幹に就任。同年8月より、読売巨人軍オーナーを兼任。東京本社会長、相談役を歴任。著書に『新しい法律記事の読み方』(ぎょうせい・共著)、『新・法と新聞』(日本新聞協会・共著)がある。
 

滝鼻:ところが英米法の社会では、市民が「これが正義だ、これが有罪だ、これが無罪だ」と考えたものが正義だという考え方です。量刑は職業裁判官が行うにしても、正義を実現するのは一般市民であって御上ではありません。

日本でも、正義というのは、われわれ自身が考えるべき問題ではないのか、御上が考えることは参考にはするけれども、ジャーナリストが自分で考えるべきことではないか、というのが私の考えです。

したがって、前々回話したように、法律スレスレのことを書くときには、書かない不利益と書くことの利益のどちらが大きいかを考えますが、それと同時に、国民共同の利益あるいは正義はどちらにあるかも考えます。

ただ、日本の場合、正義という言葉が、勧善懲悪と似ているので、非常に使いにくい。正義を厳格に定義するのは難しいですが、言ってみれば、「大多数の人が認めてくれること」あたりに落ち着くのかもしれません。その正義のために私はジャーナリストをやっている。その正義の実現のために、記事を書きたいというのが私の思いです。

欧米の正義とは神である

山折:結論を先に言いますと、欧米における正義とは、神の代替語ではないかと私は考えています。近代になって神が否定されたので、その代替主として正義、フェアネス、公正、理性といった言葉が持ち出されるようになったわけです。ですから、彼らが正義というときには神の視点が、無意識のうちに彼らのDNAに流れています。それに対して、日本人はそうした一神教的な超越的価値を持たない民族であり、そういう文化を育ててきたわけですから、世間の力で、国民で、みんなで、という発想になります。

みんなで考えると、正義は相対的なものにならざるをえません。ですから、前回話した正邪善悪で判断しない私の考え方はまさにそこにつながっているわけです。だから正義とは何か、ということになると苦しむのでしょう。

滝鼻:苦しみますね。

山折:西洋社会はそこが違います。たとえば、あるヨーロッパの国で人肉食事件が起きた際に裁判が行われましたが、最終的に裁判官は「神様もこれをお許しになるだろう」と言って許したケースがいくらもありますよ。危機の状況で仲間の肉を食べた罪を裁くときに、神というカードを入れるわけです。それが西洋における正義ではないでしょうか。

滝鼻:なるほど。ただ日本ではそういうことは出てこない。

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