被害者感情と刑罰
滝鼻:今、裁判官は、司法研修所や先輩裁判官から、刑罰の意味として3つのことを学びます。ひとつ目は、犯罪の予防。二度とこういう犯罪を起こさせないための予防効果です。予防は、威嚇的な効果や抑止的な効果を狙ったものです。2つ目は教育。要するに被告人が刑務所から出たあとに、立ち直るかどうか。二度と犯罪を起こさない人間にするための間接的効果です。3つ目が、いちばんあいまいで非常に難しいところになりますが、被害者感情の緩和です。被害者とは、犯罪で被害を受けた人や遺族です。この被害者感情が刑罰によってどれだけ緩和されるだろうかという観点から量刑を行います。
この3つのポイントがあるのですが、今は「被害者感情の緩和」、つまりは、被害者が納得してくれるかどうかに重点を置きすぎてしまっているところがあります。一部の学者は、犯罪の被害者を第三の当事者として位置づけるべきだと主張していますが、それを認めると、裁判員がみな情に流れるおそれがあります。
私としては、被害者感情の問題は、裁判官が苦悩すべき話であって、被害者の声を裁判員が直接聞いてはいけないという考えです。そうでないと、被害者感情を重視する判決に流れてしまう。それよりも、予防的効果を重視すべきではないかと思います。
山折:菊池寛の『ある抗議書』という小説があります。その作品の中で、強盗殺人犯が死刑に処されるのですが、刑務所でキリスト教の信者になり、最後に絞首刑なるときには喜びの笑みを浮かべて処刑されて、天国に召されるという話を弁護士が公表する箇所があります。
滝鼻:死刑の執行の後ですか?
山折:そうです。あの凶悪な犯人も最後にはキリスト教に改心して天に召された、喜びの心を抱いてこの世を去って行った、と。それを知った被害者の遺族は怒るわけです。
滝鼻:そうでしょう。
山折:それに対して、遺族は上申書を書くわけです。自分たちは殺された家族と共に苦しみながら生きてきた。それなのに、家族を殺した犯人が、宗教的に救われて死ぬのはいったい何事かという問題です。これは永遠の問題ですよ。さすが菊池寛だなと思いました。
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