「学問」の道筋から外れるな
水野:それは教授法の問題じゃないですか。だから、先ほど申し上げたように、英語と日本語の音声の違い、音声の仕組みの違いをきちんとシステム化して教えれば、自分でも復習できるし、できる子は自分でもっとやるようになるので、私はそれほど時間も予算もかかるとは思っていないんですよね。
安河内:なるほど、教授法の変換ということですか。
水野:変換というか、今の方法に加えるという形でもいいと思います。あくまでも教科というのは「勉強するもの」から崩しすぎると、学校というものの意味がなくなる気がします。ただし、音声なしの授業、英語というのも極端なので……。
どうでしょう、私はまだ大学入試改革に関しては意見が固まっていないのですが、学校の教育というのは、少なくとも「学問を究める道筋」には乗っていなければならない、と思うのです。国語にしろ理科にしろ社会にしろ算数にしろ、そこにつながらないものは、あまり意味がないと。
ですから、遊んだり歌ったり踊ったりとかを、ここに乗せていいものかという疑問を感じています。
安河内:そこは私は微妙に違った意見を持っています。大学に進学するのは全体の50%ですね。そのうち職業としての訓練に近い大学に進む人が30%います。もちろん、それより先にも進むことはまったくかまわないのですが、本当にハードコアな学問を必要とする人が、国民の中で何%いるのかを考えると……。
水野:でも、その何%かの人たちの可能性は奪ってしまうことにもなりますよね。
安河内:ある程度はそうですけど、あまりハードコアな道を全員に進ませるというのは、ちょっと厳しいのではないでしょうか。
水野:これは別の問題になりますかねぇ……。そもそも論でいうと、大学なんて今みたいにたくさんいらないじゃんって思っているのです。
安河内:いらないです。
水野:皆が皆、大学に行くから大学がおかしくなると思っているので。10%の本当に行きたい人だけが行けばいい。
(構成・撮影:宮園厚司)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら