学者を育てるための問題
安河内:日本の国立大学、ほとんどの入試が“学者を育てるための問題”を出しているんですよね。その問題を解く人の中で、実際に学者になる人がどれだけいるのか。ほとんどの人は営業や製造に携わったり、グローバルビジネスをやったり、別の仕事に就くのに。
水野:ただ、国立大学の使命としては私は、それもいいんじゃないかと思うんですけど。
安河内:ほぼすべての問題がいまだにそうなっていることに、私は苦笑いしてしまいます。
水野:昔の官僚の人たちはそれでもきちっと話せたし、聞けたし、なんとかなっていたじゃないですか。それはやはり少数精鋭のエリートで、そもそも地頭がいいから、何をやったってできるんですよ。子ども時代からできる子はできる。歌ったって遊んだって文法をやったって、できる子はできる。
安河内:ただ一方で、大学受験が本来、あるべき問題で、学生を試していれば、生徒はそれに向かって勉強するだけで、バランスよく英語ができるようになっているはずなのに、全然できないまま大学生になっていく子どもたちの姿を目の当たりにするにつけ、あの大学受験って何なんだろうなぁという疑問が、ふつふつと湧き続けるのですよ。
水野:受験する人数が増えていけばいくほど、ああいう形での試験しか無理だということでしょうか。一人ひとり丁寧に面接を行うのは、時間的な制約もあると。
安河内:もちろん、人数的な制約はあります。でも、それができるようになってきているのですよ。現在はさまざまなシステムがあります。
水野:欧米なんかは、割としっかり面接をしたりしてきちっと選んでいますよね。その代わり、進学率は高くはないですが。
安河内:日本でもiBT(インターネットを使ったテスト)のシステムやCEFR(セファール、Common European Framework of Reference for Languages)の枠組みなどを利用したりして、面接の評価をスコアやバンドにして可視化できるようにもなってきています。
英語だけに力を入れるのはどうなのか
水野:話を戻すようですが、英語だけにそうやって力を入れるというのも、どうなのでしょう……。
安河内:英語だけじゃなくて、ほかの教科も尊重しながら、英語の評価システムを改良するということです。
水野:面接が上手な学生が受かりやすくなって、本当は力を持っているのに、人前でそれを形として発揮できない学生には、向かないということも考えられますし。天才気質な人って、少しの時間では理解されにくかったりもします。そういう才能を埋もれさせてしまう危険性も生まれてきます。
安河内:しかし、本来の英語力が評価されないのはおかしいですね。英語以外の能力も評価するために、特別枠などの工夫はいろいろあるわけですから。もちろん、英語というのは、いろいろある科目のひとつですから。
水野:やっぱり足が速い子や音楽に秀でている子と同じように、勉強だけができる子にも、道を用意しておくというのは大事ですよね。
安河内:逆に言うと、英語の翻訳ができない子は大学に入れないというのはおかしいと思いませんか。翻訳スキルが重要でない、とはまったく思いません。しかし、なぜ大学受験で全員に翻訳スキルを課すのかは理解できません。
水野:翻訳できるというのは、母語と外国語の世界をふたつちゃんと持って、それらを行き来できるという証しですので、やはり翻訳スキルは多少、見ないといけないのではないでしょうか。
安河内:試すのは一向に構わないのですが、それだけしか試さないというのはどうでしょうか。
水野:リスニング・テストもあるでしょう。
安河内:センター試験ですよね。2次試験は多くが翻訳ですよ。全体で見るとリスニングは2パーセント以下です。
水野:それは学問の世界に入るからではないでしょうか。
安河内:どうすれば英語ができるようになるか、話を戻しましょう。
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