水野:小学校からやってたら、私、オックスフォードになんて入れていませんよ。だって、たとえば「get」って書いたらオックスフォードではチェックが入るんですよ。「get」ではなく「obtain」と書きなさいとか。
安河内:具体的な話をしないといけないですね。たとえば、今、幼稚園から英語教室に通わせている親御さんというのは、かなり多いんですけど、これには意味がありますか? 意味というか効果というか。
水野:私は、そういう幼児の英会話教室で教えた経験もありますけど……。
安河内:私はね、ああいう教室で「英語ができるようしてくださいね」という意識がなければいいと思うんですよ。ただの遊びだと認識すれば。
水野:親の思いは違いますよ。だから、何十万もする教材でも買っちゃったり。
子ども英語教室に通わせても、できるようにならない
安河内:親御さんたちに私がいちばん言いたいのは、子ども英語教室に週に1時間通っても、英語は「できる」ようになるはずがない、ということ。
水野:それ、共同声明として出しましょう。
安河内:それでも通うこと自体は悪いことじゃないと思います。水泳教室や柔道教室みたいに、子どもが友達と触れ合ったり、一緒に時間を過ごすことに意味があるのですよ。
水野:かなりお高い買い物ですけど。
安河内:よくあるのが「なんで長いこと通っているのに、しゃべれるようにならないんですか?」という親御さんからの質問。それはなりませんよ。週に1回くらい通っても、1年や2年でしゃべれるようにはなりません。じゃあ、通うことにまったく意味がないかというと、私はそうでもないと思います。ちょっとでも英語が楽しいなぁという意識が育つならば、それは素晴らしいじゃないですか。
水野:嫌いだって子も出てきますよ。
安河内:そういう子はやめていいんですよ。
水野:親がやらせたい、というのは置いておいて。
安河内:いちばんマズいのは、子どもが嫌がっているのにやらせることです。英語嫌いになっちゃうから。英語嫌いになるひとつのパターンは、小さい頃から親が一生懸命にやりすぎて、「英検、取りなさい!」とか言って検定試験を強いるとか。それで親が「うちの子どもは英検2級ですよ」とかって自慢しているような家の子というのは、高校くらいになって英語が大っ嫌いになっている。実際にそういう子どもに私は出会います。
水野:本音は結局、自分ができなかったから子どもにはできるようにさせたいというのと、小さな頃からの投資は回収したい。そういうことじゃないですか。心の底から子どもの立場に立ってると言えますかね。
安河内:現在の日本では、そんなに英語は必要ないかもしれません。でも、たとえば20年後くらいには必要になってるんじゃないかと、親は心配している部分も大きいと思います。
だからといって、全員が英語ができなくちゃいけないというのではなくて、英語がまったくできなくても、優れた研究をする人もいるだろうし、自動車の整備に秀でた人もいるだろうし。全員に英語を強制する必要はないけれども、英語の必要性が増してくることは間違いないでしょうね。できることなら、英語を自分のスキルとして身に付けておくといいとは思います。
ただ、英語を絶対視して、英語ができないからうちの子はダメな人間だと決めつけるのはいけないと思います。ときどき「英語ができる人=すごい人」「英語ができない人=凡庸な人」という価値基準が見られますが、英語というのは人間の持っているたくさんの能力の単にひとつのもので、たったそれだけで人を裁くなんて、ありえないですよ。そういう点では、英語だけがあまりにも重視されすぎるのは、おかしいです。
水野:小学校から導入したら、ますますそれが加速するのではないですか。小学校から導入するほど重要になってくるんだと勘違いしませんか。
安河内:そこを正しく啓蒙していく必要があると思います。
水野:社会の一部の人だけ英語ができればいい、それはわかっているのですが、その一部の人にうちの子にはなってほしい、というのは親の勝手な願いですね。
その命題の立て方は間違いです
安河内:英語ができる人、数学ができる人、建築ができる人、いろいろな人が協力し合ってこそ、社会というのは成り立ちますよね。
繰り返しになりますが、皆が皆、絶対に英語ができるようにならなくちゃいけないということはないのです。ただ、といっても英語の重要性を過小評価してもダメです。英語ができたほうが、できないよりも有利なのは間違いない。
水野:その命題の立て方は間違いです。
安河内:そうですか?
水野:英語だけでなくて、ほかのことでも、できたほうがいい? できなくてもいい? そりゃ、できたほうがいいとなっちゃうんですよ。できないよりはできたほうがいいという、その命題の立て方は間違いです。
安河内:……そうですか?
水野:だって、そうじゃないですか。ジャグリングだってお料理だって、できないよりはできたほうがいいじゃないですか。その考え方だと全部ができたほうがいいになっちゃうので、論理がおかしいですよ。言葉のマジックです。
もう英語の話から離れて、教育観全体とか、もっと言えば人生哲学の話にまでかかわることですね……。日本の高校生にとっての“実用”英語というのは、大学受験の英語ですよね。だから、大学に行かないのであればやらなくていいし、親が大学に行かせたいといっても、子どもの力や気持ちも考えないと、ですね。エリート層には英語は必須だとは思います。世界のエリート層と互角に渡り合うならば、英語は必須です。
根深い問題だと思いますが、日本の社会ってエリートが嫌いじゃないですか?
安河内:そうですね、格差を作りたがらない社会だと思います。しかし、日本にはエリート教育が存在しないかというと、そうでもないですよね。存在しないようで厳然と存在するエリート教育に対する親の本能的な「嗅覚」があるように思います。それと英語教育というのは結び付きやすい、かもですねぇ。
エリート教育の中間目標としてあるのが大学受験。それで、大学受験の偏差値によるピラミッドを構築するひとつの大きな柱は何かと言うと、英語力。というところから、親や学生の英語に対する思いが非常に強い。すべてが英語に帰するとは言わないまでも、こういうことが、親が子どもに英語を学習させたい、10代の子どもたちが英語を学習する大きなドライブ(動機付け)になっている、ということはあるでしょう。
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