高円寺に「サブカル好き」が多く集まる歴史事情 「中央線沿線に住むこと」が若者の憧れだった
「中央線文化圏」という言葉があるように、中央線には文化装置が豊富にそろっているイメージがある。まず、中央線がいつ走ったのかについて言及しよう。
中央線の原型が生まれたのは、1889(明治22)年の甲武鉄道の開業にさかのぼる。このときは、新宿駅―立川駅間で開通した。同年に、立川駅―八王子駅間も開通、御茶ノ水駅までの延伸は、1904年のことになる。そして1906年に甲武鉄道御茶ノ水駅―八王子駅間が、鉄道国有法により買収・国有化された。この時点では、御茶ノ水駅―篠ノ井駅間の鉄道となる。
「サラリーマンの街」だった中央線沿線
この鉄道が国有化された時期以降、東京には変化が現れ、いわゆる大正デモクラシーの時代が到来する。特筆すべきは、「サラリーマン」の誕生であろう。高級官吏、軍人、そしてサラリーマンというホワイトカラー層が、時代を担っていくことになる。
1928年の前田一『サラリマン物語』には、「サラリマン、それは―俸給生活者、―勤め人―月給取り―洋服細民―そして腰弁、―とその名称が何であれ、正体を洗えば、『洋服』と『月給』と『生活』とが、常に走馬灯のように循環的因果関係をなして、とにもかくにも『中産階級』とかいう大きなスコープの中に祭り込まれている集団を指したものに違いない」と定義づけされている。
中央線沿線は、そのサラリーマンが多く住むエリアになり、軍人でいえば、高円寺は尉官の町、阿佐ヶ谷は佐官の町、荻窪は将官の町と呼ばれたりもしたそうだ。ここからは、東京の人口が西の方向に増加していった様子がうかがえる。
高等教育機関の誘致が始まったのも、この時代だ。新宿の角筈にあった東京女子大学が、井荻に移転したのが1924年。成蹊学園(現在の成蹊大学など)が、池袋から吉祥寺に移転したのも1924年。関東大震災で校舎が倒壊した、一橋にあった東京商科大学(現在の一橋大学)が、国立に移転したのが1927年。帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学、多摩美術大学)が、吉祥寺に開校したのが1929年。やはり震災で五番町の校舎が全焼した女子英学塾(現在の津田塾大学)が、小平に移転したのが1931年、という具合である。
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