駅前「中野サンプラザ解体」新区長でどうなる 解体・再整備計画の見直し訴えた新人が当選
東京都中野区長選は6月10日に投票、11日に開票され、新人の酒井直人氏が初当選を果たした。
今回の区長選で大きな争点だったのが中野駅周辺の再開発、特に中野区役所と中野サンプラザ地区の再整備計画だ。区役所の移転に伴う解体と中野サンプラザの解体により、両施設を一体的に開発し、1万人収容の大規模アリーナを目玉とした複合施設を建設する計画が進む中、現職の田中大輔氏が計画の推進を訴えたのに対し、酒井氏をはじめとするほかの3候補は反対や慎重姿勢だった。
そこで、中野駅北側のまちの姿や再整備にあたっての経緯を見ながら、中野区役所・中野サンプラザの再整備計画について考えたい。
関東大震災後に発展した街、中野
もともと中野は武蔵野の農村地帯にあり、地名の由来も武蔵野の中にあることからと言われている。
そんな農村地帯だった中野の都市化が始まったのは1923年の関東大震災後のことだ。家を失った人々などが移り住み、中野周辺の人口は激増した。併せて中野駅も乗降客が激増する。1922年の乗降客が1日あたり約9000人だったのに対して1924年には約1万5000人になったというから、相当なものだ。
そのため、1889年に開通していた国鉄中央線(開業時は甲武鉄道)の中野駅が手狭になっただけではなく、中央線そのものも殺人的な混雑になり、1929年には駅が現在の位置に移転、さらに1933年からは中野―御茶ノ水で急行運転が始まった。それからも戦後の混乱期を除いては1960年頃まで大きく人口を伸ばし続け、1966年には地下鉄東西線が中野駅に乗り入れた。
現在は中野区全体で約32万人が暮らし、中野駅は1日あたり約42万人(JRと東京メトロの乗降客数の合計)が利用する。
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