高円寺に「サブカル好き」が多く集まる歴史事情 「中央線沿線に住むこと」が若者の憧れだった
つまり、東京は西へと発展していき、サラリーマン層、学生層の増加がそれを下支えしていくことによって、中央線沿線の独自文化の萌芽につながっていく。その結果の1つが、井伏鱒二、太宰治などが集住した「阿佐ヶ谷文士村」であろう。井伏鱒二は『荻窪風土記』でこんなことを書いている。
新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移つていく。それが常識だと言ふ者がゐた。(略)
荻窪方面など昼間にドテラを着て歩いてゐても、近所の者が後指を指すやうなことはないと言ふ者がゐた。貧乏な文学青年を標榜する者には好都合のところである。
(井伏鱒二『荻窪風土記』新潮文庫)
学生層の増大が中央線文化に寄与した
サラリーマンによる地域経済発展への貢献もさることながら、文化的な寄与を見ていくと、注目すべきは学生層の増大だろう。中央線は、交通インフラの発展により、都心部の学生の居住地にもなっていく。明治大学、法政大学、中央大学などは、中央線の東側にあり、地方出身学生がそこよりも安価な居住スペースを確保するためには、新宿以西が好環境だった。
隈研吾、清野由美『新・ムラ論TOKYO』では、中央線文化に言及している。以下は、高円寺に安めのアパートやワンルームマンションが多いことに着目しての会話である。
隈:建物の中央に共同の玄関があって、左右に六畳とかの部屋が並んでいる形式ですね。本郷とか早稲田とか、昔の学生街によくあった作りですね。
清野:そのような受け皿を温床に、地方から出てきた学生やフリーターが、最初に一人暮らしを始める町なんですね。中央線沿線というのが、また大学や専門学校の多いところですし。
(隈研吾、清野由美『新・ムラ論TOKYO』集英社新書)
また、ライブハウス「ロフト」の創業者・平野悠は、機関誌『ROOF TOP』で、次のように述べている。
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