※ その1:愛国心でも愛郷心でもない、日本人の教養
※ その2:今の日本人は“情”が欠如している
安西:これは私の全く主観ですけど、戦争を経験した経営者と戦後世代の経営者というのは、多少違うのではないかという気がします。
山折:なるほど。私は旧制中学時代に敗戦を経験した世代ですが、学生時代に仙台で下宿をしていたとき、下宿先の夫婦が仲悪くて、しょっちゅう喧嘩するんですね。あるとき、私が思わず仲裁に入った。すると亭主が台所に行って包丁を持ち出してきて、追っかけてくるんですよ。ただし初めから刺す気はなくて、脅しているだけですよ。結局その後1年ぐらいその下宿にいましたが、そういう経験は日常茶飯事でしたね。まして戦争中ならなおさらでしょう。
安西:戦争があってほしいわけではもちろんありませんが、生死ギリギリの厳しい体験を抜きにして、本当の判断基準としての教養が本当に身に付くのか。本を読むのはいいですし、古典を読むのは大事だと思いますが、本当に血肉になるのはどういうことかがわからないままに大人になってしまう。
山折:それは確かに重要なところですね。人間関係、人間関係といいながら人間関係の血みどろな修羅場を体験することがあまりない。それを体で知っているかいないかというのは、教養に血を通わせるのに非常に重要な問題かもしれませんね。
安西:私はそう思いますね。
山折:実際はそういう修羅場も至るところに存在しているわけですが、それを見て見ぬふりをしてきている。
安西:それに触らなくても、普通にある程度の生活はできる国になっている。ところがグローバル化云々のことをいえば、グローバル化っていうのは別に英語ができて外国で暮らせるということではなくて、得体の知れない人が隣にいるということです。それは不気味なことでもあり、一方でチャンスでもあるわけです。そんな世界で生きていく時に、そういう体験が血肉になっているかどうかは、非常に大きなことだと思うのですね。
山折:異文化の中で、得体の知れない人間の中で、その人間とどう付き合うか。そういう問題ですよね。
安西:はい、そうですね。文化的背景も、礼儀作法も何もかも違う初対面の相手の気持ちを読めるかどうかということですね。そういうバックグラウンドの違う人の心の痛みを感じることができるかどうかは、単なる詰め込み知識ではなくて、体験にかなり依存していると思います。それをどういうふうに感じるかということですね。
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