――今回の対談では、「教養」と「大学」、そして中学高校など、教育全般ついて伺いたいと思います。安西さんは「日本の大学は終末期を迎えている」と指摘していますが、まずその理由をお話しいただけますか。
安西:「終末期を迎えた日本の大学」ということの意味は、戦後の長い間に堆積されてきた日本の大学の機能が、時代の移り変わりとともに末期を迎えているということです。
総論として、これまでの時代は、大学生が受け身の教育を受けて自動的に社会に出れば、そのまま社会の階段の中で暮らしていくことが可能でした。大学は一斉授業を行い、学生は授業に出さえすれば単位が取れて、卒業時期には就職活動をやればなんとなく就職ができる。そして企業に行けば企業の中で、普通にやっていれば暮らしていける――そういう時代が長く続きました。そうしたシステムの土台として、大学は機能してきましたが、そうした時代が終わりにきているのではないかという問題提起です。
なぜ小林秀雄がセンター試験に出たのか
山折:最近、私は「大学にささやかな異変が起こっているのかな」と、プラスの意味で思ったことがあります。それは、2013年のセンター試験の国語の科目に、小林秀雄の文章が出題されたことです。刀の『鐔(つば)』という、昔、私も学生時代に読んで非常に感銘を受けた文章が出ました。ところが、多くの学生はそれを理解することができなかったために、平均点が前年より16.91点も落ちてしまったのです。それに対して世間では、「なぜあんな難解な文章を出したのか」という批判が多く出ていました。
私はこの問題に関して、大学入試にかかわった大学の助教授クラスの人間に意見を聞いてみたのです。すると、彼らが異口同音に、「ここ20~30年、小林秀雄の文章は非常に人気がなかった。理系の教師はもちろん、社会科学系の教師たちの間で特に人気がなかった」と言っていました。
それはなぜかというと、まず論理的ではない。わかりやすくない。つまりコミュニケーションのための言葉としては不十分だから、入試問題に出すべきではないという意見が強かったそうです。ただし、僕ら文学の世界で育ってきた人間からすると、小林秀雄は文学の神様と言われてきた人であり、多くの影響を受けた人間が僕の知り合いにもたくさんいるわけです。
では、なぜその小林秀雄の『鐔』が出題されたかを考えると、もしかすると3.11の影響かもしれないと思ったのです。つまり、人間とは何か、人間いかに生きるべきか、を問うたのが小林秀雄の文章そのものだということです。
その対極にあるのが、たとえば丸山眞男の文章です。論理的で、説得力があってわかりやすい。そういう対称性の中で、戦後の大学教育は丸山の路線できたのかなと思います。小林秀雄は、文壇的な世界では相変わらず神様でしたが、大学の教育システムの中では、必ずしも評価されていなかった。
しかし、もしかすると、今の大学入試を作成する助教授クラスの若手が「それではいかん」と気づいて、国語の第1問に小林秀雄の文章をもってきたとすれば、これは希望の兆しだと私は思ったんですね。
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