疲労がピークに達する中、ヨウジさんは取引先から車で会社に戻る途中で事故を起こしてしまう。さらにその数カ月後、メンタル疾患を発症。3カ月間、休職することになった。
ヨウジさんはその頃のことを「(事故当日は)運転中、信号待ちのたびにうとうとして、気がついたら前の車に追突していました。それから、ある朝突然、布団から出られなくなって……。病院に行ったら、抑うつ不安と診断されました」と振り返る。
さいわい事故は軽微で、ケガ人もなし。職場のフォローもあり、休職明けの復職もスムーズだった。メンタル疾患を抱えながらも普通に働き続けられる――。今思うと、この頃が「日産らしい」余裕があった、最後の時代だったのかもしれない。
しかし、ほどなくして、すでに日産自動車の社長に就任していたゴーン前会長ら経営陣の方針で、ヨウジさんの会社は外資系の会社に売却された。追い打ちをかけるように、リーマンショックに遭遇。激しいリストラが始まった。
組織の統廃合により、大勢の社員が「社内失業」状態に追い込まれ、畑違いの部署に異動させられたり、明らかな降格人事を受けたりした。中でも、賃金の高い管理職らは連日、面談に呼ばれ、早期退職制度に応じるよう求められていたという。
「私はまだ若手だったので、そこまでひどい退職強要はありませんでした。でも、お世話になった上司が、暗に『数字を出せないなら辞めてくれ』と言われたり、総務畑一筋だった上司が、部品の品質管理部門に異動させられたりするのを見るのは、つらかったです」
そんなある日、リーマンショックによる派遣切りのニュースをテレビで見ていて、ショックを受けた。自分が勤める会社の工場の門前が映っていたからだ。「その日は、同期たちと『この会社はもうダメだ、社員を守る気がないんだ』という話をしました」とヨウジさん。ほどなくして自ら退職届けを出した。
退職後はアルバイトをしながら職探し
しかし、この頃はリーマンショックによる不況の真っただ中。何度ハローワークに足を運んでも、正社員の働き口はなかった。ごくまれにあったとしても、残業代や社会保険などの規定があいまいで、「みるからにろくな会社ではありませんでした」。
その間、コンビニ弁当を作る工場で働いたり、スーパーでカット野菜の袋詰め作業などの仕事をしてみた。いずれもアルバイトで、時給は最低賃金水準。職場には、日系ブラジル人や中国人が多かったという。
「コンビニの弁当工場は、何時までに何個作らなくてはならないというのが決まっていて、いつも1分1秒単位で、急げ、急げと言われました。立ち仕事ですから、私なんて2、3カ月で足のつま先にしびれのような痛みが出るようになってしまって……。会社を辞めて後悔したか、ですか? 確かに、勢いに任せてなんであんなことしちゃったのかなと思うこともありました」
ヨウジさんは方針を転換、転職先を公務職場に絞って探すことにした。その結果、ある中核都市の臨時職員として採用された。税金を扱う部署で、仕事の内容は正規職員とまったく同じ。しかし、残業がなかったこともあり、年収は正規職員の3分の1以下の約150万円だった。
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