総額2兆円?「豊臣埋蔵金」は実在するのか 大坂の陣に消えた「黄金100万枚」の行方
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
Q1.はじめに「黄金」とは何ですか?
ずばり「ゴールド(金)」のことです。厳密には、当時の大型金貨である「大判」を指す場合が多く、これに対して小判をたんに「金」と呼んで区別しています。
秀吉時代の「天正大判」は、天正16(1588)年に後藤徳乗(とくじょう)に作らせたもので、主に儀礼用に使用したため一般には通用しなかったようです。
その当時で米40~50石に相当する価値がありましたが、現代では希少価値も加わり、海外のオークションでは「1枚1億円」の価値がつくほどです。
ちなみに、黄金の読み方は「こがね・きがね」、ほかに、金は「かね」、銀は「しろがね(白金)」、銅は「あかがね(赤金)」、鉄は「くろがね(黒金)」というのが、一般的な呼称でした。
「黄金の茶室、庭園の飛び石も金」
Q2.こうした伝説が、なぜ世間に広く浸透したのですか?
実際にあった、秀吉の黄金にまつわる数々のエピソードのせいでしょう。
たとえば、彼が大坂城内に作ったという有名な黄金の茶室をはじめ、「庭園の飛び石が金で作られていた」という話、あるいは城内の至る所が金の装飾で覆われているのを見た「宣教師らの証言」、天正17(1589)年に諸大名に金銀あわせて3万5000枚をバラ撒いたいわゆる「金配り」など、枚挙に暇がありません。
Q3.では、「埋蔵金を隠した」という多田銀銅山とは?
現在の兵庫県にあった鉱山です。古くから銅の産地として知られていましたが、秀吉が生きた戦国時代末期には第一次盛山期となり、銀、銅のほか、貴重な顔料のひとつ「岩紺青(いわこんじょう)」が産出されました。
現在はすでに廃坑となりましたが、往時の規模は同県猪名川町と周辺域にまたがる十数キロ四方におよび、坑道の数は2000を超えるといわれます。
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