総額2兆円?「豊臣埋蔵金」は実在するのか 大坂の陣に消えた「黄金100万枚」の行方
4億5000万両?多田銀銅山に眠る秀吉の黄金
慶長3(1598)年6月、朝鮮半島では明国侵攻に向けた激しい戦いが繰り広げられるなか、重い病に倒れた豊臣秀吉(1537~1598)は、自らの死期が近いことを悟ります。
死期を悟った秀吉は、まだ幼い息子、秀頼(1593~1615)のために、これまで全国の鉱山から集めた莫大な黄金「4億5000万両」を秘密裏に隠すよう、配下の幡野三郎光照という武将に命じました。
光照は、大坂から北西25キロに位置する多田銀銅山を隠し場所に選ぶと、坑夫らに即「閉山」を命じます。そして、無数の坑道の奥に黄金を運ばせ、それを21カ所に分けて埋蔵しました。
さて、時はくだり大坂冬の陣(1614年)。光照は戦死を覚悟し、戦いを前に、黄金の隠し場所を詳しく記録した文書を子孫に残します。
この伝説が書かれた巻物と絵図を、第二次世界大戦の終戦直後、ある人物が先祖伝来の家財を整理中に、奇跡的に戦災をまぬがれた荷物の中から見つけたのです。
このことが新聞で大々的に報道されると、「豊臣埋蔵金」の存在がいっきに全国に知れ渡り、多くのトレジャーハンターたちが一攫千金を夢見て、その謎に挑むことになりました。
しかし彼らの夢もむなしく、埋蔵金は今日に至るまで発見されていません。そもそも、わずか二代で滅亡した豊臣家に、そんな莫大な黄金が本当に実在したのでしょうか。今回は、謎の多い「豊臣埋蔵金」について解説します。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら