総額2兆円?「豊臣埋蔵金」は実在するのか 大坂の陣に消えた「黄金100万枚」の行方
Q8.それを全部、牢人たちに支払ってしまったのですか?
いいえ、それくらいで使いきれる量ではありません。
真田幸村(信繁)とその手勢300人に対して、黄金200枚が支給されたという記録を元に単純計算すると、豊臣勢10万人に対する当面の人件費は、合計で黄金6万~7万枚程度です。資金的余裕はまだまだ十分といったところでしょう。
大坂の陣の奮闘は「おカネがあったから」
Q9.これだけの資金があっても、豊臣方は勝てなかったのですよね。
はい。ただしそれについては、「これだけの資金があったからこそ負けなかった」という見方ができるでしょう。
当時、豊臣家は摂津(大阪府・兵庫県の一部)とその周辺地域を合わせた65万石の一大名にすぎず、秀頼に呼応する大名もいませんでした。対する家康は、幕府の権威で全国の諸大名を動員できたわけですから、本来なら勝負の行方は一目瞭然です。
ところが、大坂城では真田幸村(信繁)のような「実力ある」牢人が大勢雇われ、城自体の堅固な防御も相まって奮闘します。
結局、家康は30万の兵を擁しながら大坂城を攻略できず、戦いは一時講和(引き分け)となりました。
Q10.秀頼が屈服しない背景には「おカネ」も関係していたのですね?
はい、大いに関係したでしょう。
次いで家康は、秀頼に大和(奈良県)への国替え、もしくは城に残る牢人たちの解雇を命じます。しかし、秀頼はどちらにも応じることなく、戦いは夏の陣へと移ります。
この秀頼の強気な姿勢こそ、裏を返せば大坂城には、まだ大量の牢人を雇える体力、つまり「金」があった証拠、ともとらえられるかもしれません。
Q11.でも結局は、秀頼は負けてしまいますよね?
はい。さすがにおカネの力をもってしても、「限界」はあります。
講和では家康の巧妙な策略にはまり、大坂城は主要な堀を埋められてその機能を失いました。こうなっては、もう勝ち目はありません。
そして迎えた「大坂夏の陣」、幸村らの善戦むなしく豊臣家は滅びます。
Q12.大坂落城時、黄金はどうなったのですか?
元和元(1615)年5月8日に秀頼が自刃し、城は灰燼に帰したため、その行方は一時的に不明となりました。
家康は翌9日から腹心の部下に城を封鎖させ、焼け跡から黄金を探すよう命じました。
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