新社屋の1階では、ゴミ屋敷清掃を終えたスタッフが、慌ただしく作業をしている。社長は、キビキビと指示をした後、こちらに歩いてきた。
「やっと大きい社屋を持てて、普通の会社になりましたわ」
佐々木社長は笑顔で語った。
新社屋は38坪のかなり大きい物件だ。先日までは10坪の事務所兼作業場で作業していたという。
その4年前は、自宅のマンションのベランダで作業していた。佐々木社長は、数年で大きな社屋を持てたことに感慨深げだ。
外見とは裏腹に幼少期はお坊っちゃんだった
佐々木社長は、いわゆる人当たりの良い、優しそうなオジサンではない。強面で眼光はするどく、一筋縄ではいかない雰囲気が漂っている。いかにも曲者なので、任侠の人だと勘違いされることもあるそうだ。
そんな外見とは裏腹に、幼少期はお坊っちゃん育ちだったという。佐々木社長の祖父は、戦後の大阪の闇市で一稼ぎして、その後公設市場に何軒もお店を持った、ひとかどの人物だった。
「3~4歳の頃かな。俺が大阪の自宅で寝てたら、若い衆が荷車ひいて帰ってくる。彼らが部屋に持ってきたりんご木箱の中にはお札が山ほど入っていて、それを爺さんと婆さんが数えている……そんな光景をよく覚えている。おカネには恵まれた家やった」
ところが、お坊っちゃん生活は、長くは続かなかった。
小学校2年生の時にその祖父が亡くなり、父親の代になった。父親は代を継ぐまでは、オーケストラのチェリストをしていたという、まったく商売っけのない人だった。店は1軒、2軒と潰れていき、最終的には全部なくなり、自宅に頻繁に借金取りが来るようになった。
そして佐々木社長が中学校1年の時に、一家で奈良県に夜逃げをすることになった。大阪の一軒家から引っ越した先は、家族で住むにはあまりにも狭い築40年のボロアパートだった。
絶望的な状況になったにもかかわらず父親はまともに働かなかった。三日働いては辞める、というのを繰り返す。代わりに母親がけなげに働いていたが、生活は苦しかった。父親を見て佐々木社長は、心底「情けない」と思ったという。
「その時『男はカネを稼がなければ意味がない』と悟った。『世の中カネじゃない』なんて綺麗ごと言う人もいるけど、やっぱり世の中は銭。おカネは大事よ」
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