山口絵理子が探し続ける「輝ける場所」とは? マザーハウスが起こしたモノづくりの奇跡
思っていた以上に、バングラデシュで安定した品質を保ち、確固たる信頼関係を作るのは至難の業だった。できあがったバッグを段ボール箱に投げ入れたり、はさみを投げて渡してきたり。
工場を転々として、最後にくだした決断は、「自分の工場を持つ」という、もっとリスクを取る選択だった。
このときも「日本での販売さえままならないのに、途上国で現地法人を作って、自分の工場を持つなんて、馬鹿じゃないか!」と言われた。
それでも退路を断った人間には、奇跡を呼び寄せるチカラが宿る。
信頼していた現地のパートナーが工場を去り、誰も頼れる人がいなくなったときのこと。“奇跡の出会い”があった。今の工場長マイヌル・ハックと出会ったのだ。彼は絶望的な状況でも逃げ出さず、共に汗を流してくれた。
そして、彼がモハメド・アブドゥラ・アル・マムンという現在の生産マネジャーを連れて来てくれたこと。さらにマムンが、モルシェド・アラムというバングラデシュで最高のサンプルマスターを連れて来てくれたこと。絶望の淵に立たされたとき、奇跡は起こる。
どこにも近道はなかった
奇跡の出会いがさらなる奇跡の出会いを呼び、3人からはじまった工場は、現在約200人になっている。そして、みんなが家族のように温かく、切磋琢磨しあう関係であることには、うそ一つない。
こうやって文章にすると、あっという間の出来事のように思えるが、どこにも近道はなかった。
よく、「信頼関係がどのように作られたか?」と聞かれることがあるが、何か一つの出来事がきっかけだったわけじゃない。ピンチのときも、苦しいときも、彼らと「一緒にいた」事実がそれを作ってくれた。よりよいもの、新しいものを生み出すために、汗を流してきただけだった。
年間、多いときは7割の時間、バングラデシュの工場にいた。今でも1年の半分はいる。だから、自分のホームがどこなのか聞かれると、半分バングラデシュだって答えている。
振り返ると1000種類以上ものバッグを作ってきた。売れる商品を作れたときもあれば、眠れぬほど悩んだ商品でも、まったくお客さんに届かなかった時期もある。それでも、いいときも悪いときも、彼らと一緒にいた。
3人ではじまった小さな家「マトリゴール」(ベンガル語で「マザーハウス」)は、温かい温度感を保ったまま、少しずつ大きな家になっていった。
バングラデシュのスタッフが140人くらいのとき、ピクニックに行った。なぜかみんな、「マトリゴール」と書かれた水色のオリジナルTシャツを着て参加してくれた。そんな、思いもよらない予算の使い方に、一致団結力を見せつけられたのだった。
そしてもう一つ。「デザイン」の道のりも、毎シーズン、新しいドラマを私の人生に与えてくれた。改めて言うと、私には「代表取締役」と「デザイナー」の二つの肩書がある。デザインの話はマニアックすぎるので、ここでは深くは書かない。しかし、その話だけでも、一冊本が書けるくらい、悩み、もうだめだという、絶望を何度も感じた。
「お店が増えるほどに型紙が切れなくなるのは、どうしてだろう……」
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