山口絵理子が探し続ける「輝ける場所」とは? マザーハウスが起こしたモノづくりの奇跡

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「この国で、最高のジュートバッグを作ろう。そして貧しいっていうイメージを払拭するような商品を、世界に届けよう。それこそが国際機関でもなく、ボランティアでもない、自分らしいチャレンジだ」

そうスケッチブックに描き、私は一人、バングラデシュのとびきり治安の悪い革のなめし工場のあるエリアで、バッグを作ってくれる工場を探しまわり、最終的にアルバイトでためた全貯金を使い、160個のバッグを作ったのだった。

「ブランド名は、“マザーハウス”にしよう。尊敬するマザー・テレサのマザーと、みんなが帰れるような“家”のようなブランドになりたいから、ハウスをくっつけよう。マザーハウスだ」

それがマザーハウスのはじまりだった。

日本に帰ってから、会う人会う人に自分の夢を話した。その度に、ちょっと笑われたり、あきれられたり、「無謀だ」「不可能だ」「考え直せば」と何度も言われたが、今年、マザーハウスは10周年を迎え、チームマザーハウスは300名を超えた。

この本のタイトルにもある「裸でも生きる」とは、はじめての出版を控えた2007年の夏、本のタイトルを考え悩んだ末に出てきた言葉だ。このときの想いが表現されている。バングラデシュで見てきたものは、明日に向かって必死に生きる人たちの姿だった。ただただ生きるために生きていた。ふと、バングラデシュの人たちが自分に問いかけているような気がした。

「君はなんでそんなに幸せな環境にいるのに、やりたいことをやらないんだ?」

他人にどう言われようが、どう見られようが、どう評価されようが、たとえ裸になってでも、自分が信じた道を歩く。バングラデシュのみんなが教えてくれたことに対する私なりの答えを、本のタイトルにした。

10年間の試行錯誤

この10年の間、私は数えきれない失敗をしてきた。本に書いて面白いような、派手な失敗というよりも、日々の地味な物事だ。

例えば、素人経営者として、たくさんのスタッフをむやみに傷つけた。

「途上国のみんなもがんばっているのに、日本のスタッフががんばるのは当たり前でしょう!」

いま思えば、完璧におかしい考えを持っていた。「あなたがいるから、会社を辞めます」とストレートに言われるまで、自分のせいで人が辞めるとは1ミリも思ってもいなかった。痛すぎる経営者だった。

生産地でも、もちろん苦い経験ばかりだった。例えば、いい製品を作ろうと思っても不良品は減らず、提携工場(自社工場ではなく、商品を委託製作する外部の工場)では、度重なるトラブルが起きた。

「パスポートがない!」

盗難事件も起きた。

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