震災直後に一時解放された囚人は何をしたか 関東大震災の渦中に起きた奇跡の物語
1923年、近代化へ邁進する日本を直撃した関東大震災。帝都・東京を中心に関東一円へ大きな被害をもたらし、死者・行方不明者は10万人強にも及んだ。このような自然災害の理不尽さは、時や場所を選ばぬことにある。
被害は平穏に暮らしていたはずの一般市民のみならず、囚人たちを収容する刑務所にも襲いかかった。なかでも壊滅的なダメージを受けたのが、震源地にほど近かった横浜刑務所である。強固な石造りの門柱は倒れ、鉄製の扉が折れ曲がり、左右に延びる外塀は姿を消し、一般人と囚人を隔てていたすべての壁がなくなってしまった。
残された記録と異なる事実
今日残される多くの記録には、「横浜刑務所の囚人が解放され、強盗、強姦、殺人など悪の限りをつくし、横浜のみならず、帝都・東京の治安も悪化させた」と残されているそうだ。囚人たちが震災のどさくさに紛れて塀の外へ飛び出したのなら、さぞや阿鼻叫喚の地獄絵図であったと考えるのが普通であるだろう。しかし、実態は大きく異なっていたのだ。
100年近くも前に起きた震災の時、横浜刑務所では何が起こっていたのか? 本書『典獄と934人のメロス』は史実に隠された真実を、気の遠くなるような時間をかけて掘り起こした、知られざる刑務所の物語である。
当時の監獄法(現在は刑事収容施設法)には、「解放」という規定があった。天災事変に際し囚人の避難も他所への護送も不可能であれば、24時間に限って囚人を解放することができるというものである。そして、その決定のすべては各刑務所の典獄(刑務所の長)の手に委ねられていた。時の横浜刑務所の典獄は、椎名通蔵という人物。
「刑の目的は応報でなく、教育による犯罪者の更生にある」と考え、囚人たちからも絶大な信頼を得ていた若き典獄は、現実を直視し囚人に対して解放を伝える。
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