震災直後に一時解放された囚人は何をしたか 関東大震災の渦中に起きた奇跡の物語

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柿色の囚衣が目立たなくなる午後6時半頃、934人の囚人たちが一斉に解放された。戻ることを約束された時間までは、24時間。その中の一人に、福田達也という人物がいた。彼は無数の遺体を掻き分け、脱獄囚に間違えられるという足止めをくらいながらも、40キロ近く離れた実家へ辿り着く。

翌朝、実家周辺の惨状を目の当たりにした福田達也は、隣家の補修や人命救助を優先させたいというジレンマに苛まされた。とはいえ典獄の信頼にも応えたい達也は、妹のサキを刑務所へと向かわせる。兄の身代わりとなって、午後6時半までに手紙を届けよ、と。妹のサキは火災と余震が襲い、治安騒乱の悪路40キロを駆け抜けた。

人命救助と典獄の信頼、どちらも捨てられなかった

彼女を走らせたのは、ただ愛する家族への強い思いである。典獄の信頼に応えたいという兄の思い、その兄の名誉を守りたいという妹の思い。そして典獄・椎名通蔵もまた、家族の人であった。彼が大切にしていた言葉に、以下のものがある。

監獄は一代家族なり、典獄は囚人の父なり、典獄は看守夫婦の父なり

 

塀がなくなった刑務所で頼りになるのは心である。囚人たちに不安を抱かせないことが、逃走の防止と平穏な収容を維持する唯一の手段である――そんな典獄の人道的な方針は功を奏し、ほとんどの囚人が期日までに刑務所へ戻ってきたという。

だが、その家族的な愛が行き届く範囲は限定的なものであった。ちまたにはさまざまな流言蜚語が広がり、市民の情緒も不安定極まりない。あまりにも対照的な囚人の秩序と、市井の人々の混沌。そのコントラストは、救援物資の荷役活動でもはっきりと浮かび上がった。精力的に構外活動に励み喝采を浴びる囚人たちをよそに、人夫たちは連携が取れずに乱闘を始めてしまう。そこに空腹と不安でいらつく市民たちも加勢するのだ。

次ページ根拠のないうわさが広まっていく
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