一方、老子の文脈では、むしろ逆です。ここでは、「賢者」から「バカ」になること——、つまり、知識を手放して“無知の力”に立ち返ることが求められています。知識がありすぎるがゆえに「勢い」に気づけない。「知っている」ということが、自然や道の流れを遮る壁となってしまうのです。
ですから、「バカの壁」は同じでも、その突破すべき方向がまったく逆だということになります。
養老さんのバカの壁は「バカ→賢者」を阻む壁。老子が示唆する壁は「賢者→バカ」への移行を妨げる壁。どちらも、私たちが自分の“知”に囚われているという点では共通しているのです。
“愚かさ”は深い思考の入り口
ある管理職の女性は、こんなふうに言っていました。
「若い頃は、答えを出すことに価値があると思っていました。でも今は、答えを出さずに待つほうが難しいんだと感じます」
それは、「空白に耐える知性」への進化です。老子の言う「無為自然」は、手を抜くことではありません。それは、力でねじ伏せず、流れに身をゆだねながら、必要なときに最小限の動きで最大の効果を出す——、そういう知恵なのです。
偏差値エリートが老子を読むと、自分がどれほど「答えを持とう」としていたかに気づかされます。そして、答えがないところにこそ、本当の問いがあると知るようになります。
結局、「バカになる」というのは、「何も考えない」ことではありません。それは、「知っている自分をいったん手放す」という行為です。老子は言います。
この“愚かさ”とは、実はもっとも自由で、もっとも深い思考の入り口かもしれません。
あなたの知性は、あなたを縛っていないでしょうか? もしそう感じたら、今こそ、『老子』を開いてみてはいかがでしょうか。
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