一見して矛盾に満ちたこの言葉の奥には、「満ちたものは、実はもっとももろく、変化に対応できない」という深い洞察があります。反対に、「空」や「欠け」に見えるものは、柔軟で変化を受け入れる余地を持っています。
つまり、「私はこれだけ知っている」「この問題にはこう答える」と胸を張る人ほど、道から遠ざかっているかもしれないのです。
現場で見える「知の限界」
ある日、ある経営者との会話で、こんなやり取りがありました。
「最近、頭の良い人を採用しても、なぜか現場でうまく動けないことが多くてね」
「それは、どういう人ですか?」
「東大とかの一流大学を出ていて、理屈的なことにはめっぽう強い。でも、自分で動けない。常に『これで合ってますか?』と上を見てしまうんです」
この話は、まさに“知の限界”を示しています。知識や偏差値で得られるのは「既知の世界」です。でも、ビジネスや人生の現場は「未知」に満ちています。そこでは、「知らないことを受け入れる力」こそが問われます。
老子はこうも言います。
これは、謙虚になれ、という教訓ではありません。むしろ、知っているという“錯覚”こそが、変化と他者への理解を妨げるのだという警告です。
この老子の思想において、もうひとつ重要なのが「不尚賢(賢を尚ばず)」という考え方です。老子は、知識や学問を積んだ儒学者のような「賢者」をむしろ否定します。なぜなら、知識をもとに世界を解釈しようとすることが、かえって現実の“勢い”——すなわち流れや機運のようなもの——を感じ取る感性を鈍らせてしまうからです。
老子が賢者として念頭においていたのは当時の儒学者でしょう。かれらは古典や礼に精通し、理屈に強いかもしれませんが、その理屈が現実の変化を読み損ねてしまう。老子は、そうした「理屈の知」を警戒していたのです。
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