そして老子は、次のようにも語ります。
学問をすればするほど知識は増えます。でも、「道」を行こうとするならば、むしろ余計なものを減らし、削ぎ落としていく必要があります。これは、ただの知識では太刀打ちできない“勢い”に対応するための身構えでもあるのです。
言い換えれば、「学ぶ」ことと「生きる」ことが時に逆行します。そのギャップに気づかず、知識ばかりを積み上げていくと、いつしか感性は鈍り、判断も遅れ、変化に取り残されてしまいます。
「バカの壁」と「老子の壁」
ここで、養老孟司さんが『バカの壁』(新潮新書)で提唱した概念にも触れておきたいと思います。この両者の違いをより明確にするために、次のように整理することができます。
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このように、壁そのものは「自己の知が世界を遮る障害」という意味で共通していますが、その突破すべき方向性が異なります。
養老さんは「バカ」から「賢者」へ進むために、理解の限界に気づくことが重要だと述べています。一方、老子の立場では「賢者」から「バカ」になること——つまり、知識を脱ぎ捨て、自然の勢いや流れに感応する感性を取り戻すことが重視されているのです。
養老さんは、「人は理解できないことを、最初から存在しないものとして処理してしまう」と述べています。これが、私たちの思考の中にある“壁”であり、その壁を乗り越えない限り、他者や世界の本質に触れることができないと指摘しました。
この意味での「バカの壁」は、バカから賢者になるための“知の障害”として描かれています。つまり、無知から脱し、より深く理解するためには、自分の枠組みを超えなければならない、という方向の話です。
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