いろんなところに「間」が存在している。でも、そのことがわからないという人が多いのです。
植物に水を与える、日光に当てる、剪定するなど刺激を与えた後は、一旦、間を置いて待つものだと思います。でも、なぜそれを自分に対してはやらないのでしょう。
脱「私はどっちなのか」思考が大事
また、日本語の奥行きを大切にできない人が多くなったとも感じています。言葉一つを取っても、人によって受け取り方も、意味合いも違ってきます。
しかし、「結局、私はどっちなのか」ということだけを気にする方がすごく多いのです。運動も休養も、「やれたのか、やれていないのか」という観点でジャッジメントしてしまう。だから、継続できないのだろうと思っています。
「休養学」は、休むだけではなく、養うという意味を問うてくれていますが、私自身は、「休養と同時に活力が湧いてくる瞬間が必ずある」と考えてきました。
本書には、活力を上げる「攻めの休養モデル」について書かれていますが、もう少し深く考えると、どこまでが攻めているのか、どこまでが攻めていないのかという奥行きもあると思います。
私たちは、「攻める」「守る」と区切られると、つい、攻めっぱなし、守りっぱなしになりがちなのですが、実際には、攻めも守りも同時に起きているのです。
例えば、栄養は、食べ過ぎないようにするのと同時に、大事な栄養を摂取する必要もあります。断食中であっても、何かを捨てると同時に何かが入ってくるわけです。
攻めた、守ったと言い切るよりは、「自分は本当にそうしていたかな?」というクエスチョンを自分に与えて、「間」を持たせることが大切です。
そして、守る時は「守りたいから、守っているんだ」という確認を、常に自分に対してしている状態がニュートラルなのだと考えています。
活動している時間、休む時間と区切ってしまわなくても、いつだって休めているし、いつだって動いている。そして、本来は、それを自分が主体的に選択することができるのです。
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