ついに最終回を迎えるNHK大河ドラマ「光る君へ」。放送をきっかけに平安時代にスポットライトがあたることになった。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる紫式部は、誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第49回は道長の息子、頼通が長期政権を築けた背景を解説する。
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気まずい事件で「頼通が後継者だ」と浸透する
藤原頼通は正暦3(992)年に、藤原道長の長男として生まれた。道長が当時の左大臣・源雅信の娘である2歳年上の倫子と永延元(987)年に結婚し、6年目に授かった嫡男である。
頼通が生まれた時期は、道長の兄・道隆が父の兼家の後継者として、関白・摂政となった頃である。道隆が嫡男の伊周を露骨に引き上げるなかで、道長は頼通という跡継ぎを得たことになる。
道長は倫子と結婚してすぐに、故左大臣・源高明の娘である明子も妻とした。倫子とは2男4女、明子とは4男2女をもうけている。
そのなかでも、道長の後継者はやはり頼通なのだと、周囲が強く実感した出来事があった。それは長保3(1001)年、道長の姉で一条天皇の母である藤原詮子の「四十の算賀」が、道長の土御門邸で行われたときのことである。
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