一条天皇や中宮の彰子も招かれるなかで、童の舞が披露された。舞った子どもは、道長が倫子との間にもうけた当時10歳の長男・頼通と、もう一人の妻・明子との間にもうけた当時9歳の次男・頼宗である。
それぞれが「陵王」と「納蘇利」(なそり)の舞を行ったところ、一条天皇は頼宗の納蘇利のほうに心を動かされた。褒美として頼宗に舞を教えた師匠には、五位の栄爵が与えられることになった。そんな顛末を見て、道長は憤慨。その場から退出してしまったという。
道長が怒った理由について、藤原実資は『小右記』で次のように書いている。
「兄は既に愛子であって、中宮の弟、当腹の長子。納蘇利は外腹の子。その愛はやはり浅い」
「兄」とは頼通、「当腹」(むかいばら)とは倫子、「外腹」(そとばら)とは明子のことだ。倫子との間に生まれた頼通と、嫡妻ではない明子の子とでは、父である道長が注ぐ愛情にも違いがあり、道長としては頼通の舞いを評価してほしかったというわけだ。
なんとも気まずい空気が流れるなかで、周囲の公卿たちは「道長の後継者はやはり頼通だ」と確信を持つことになった。
「散楽のよう」と会議の進行をバカにされる
そんな頼通が実際に、道長から摂政の座を引き継ぐことになったのは、寛仁元(1017)年3月のことだ。道長は孫の敦成親王が後一条天皇として即位すると、待望の摂政となるも、たったの1年あまりで嫡男の頼通にその座を譲っている。
道長がまもなくして体調不良に陥ることを思うと、自分が健在でサポートできるうちに後進に譲っておくのが、一族の繁栄につながると考えたのだろう。また、なるべく早く頼通にリーダーとしての自覚を促す意味もあったに違いない。
頼通は数え年で26歳と史上最年少で摂政の座に就くことになったが、いきなり疫病、飢餓、洪水に見舞われる。頼通が摂政となって4カ月後の7月に鴨川で大洪水が起きると、実資は「後一条天皇の徳が及ばないせいか、あるいは、摂政になったばかりの頼通の不徳のせいだろうか」と日記につづっている。
当時、天災は為政者に天が下した罰だと考えられていた。頼通としても出ばなを挫かれる思いがしたことだろう。それでも政務で挽回できればよかったが、父・道長の存在が大きく、頼通にはまだ荷が重かった。
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