8月に官職を任命する「除目の儀」が行われると、頼通は宇治にいる道長に使者を出すなど、父を頼っている。11月の除目でも、頼通は家司の藤原惟憲を道長のもとに遣わして、判断を仰いだという。
それも数回に及んだことから、バタバタぶりについて藤原資平は実資に「去る夕方の官職任命の儀式は、散楽のようでした」と報告する始末だった。頼通は必死に対応していたのかもしれないが、この惟憲が道長と頼通の間を往復する間に、人々に情報を漏洩していたというから、弊害は大きかったといえよう。
人材育成のタブーをやらかしまくる道長
しかし、頼通が摂政でありながら、周囲から呆れられるような有様だったのは、父で前任者である道長の振る舞いにも問題があったように思う。
例えば、頼通が摂政となって数カ月の8月には、頼通が「明日は休日なので審議を行わない」と周知したにもかかわらず、道長が当日になって「今日に審議を行うことは決定した。休日の開催を避けるべきではない」と言い出して、周囲を混乱させている。
方針がコロコロ変われば、下で働くものは大変だ。藤原資業は実資に「大小の事は、摂政は自由にし難いのです」とこぼしている。これでは、頼通の言うことなど誰も聞かなくなってしまう。道長が実権を振るうのは、息子から頼られたときに限るべきではなかったか。どうしても口を出したいときは、せめて1対1で指導する配慮は必要だったように思う。
また、治安3(1023)年には、頼通が摂政となってすでに6年が経とうとしていたにもかかわらず、道長は頼通をしかったという。『小右記』には次のように書かれている。
「昨日、多くの人の前で、禅閤が関白をおしかりになった」
(昨日、衆中に於いて、禅閤、関白を勘当せらる。)
「禅閤」とは道長で、「関白」は言うまでもなく頼通のことだ。
もはや頼通は表立って苦言を呈されることはない立場である。それだけに、道長としても「父である自分が言わなければ」という思いがあったのだろう。
しかし、「衆中に於いて」とあるように、多くの人の前でしっ責することは避けるべきだった。場は引き締まるかもしれないが、下に従う者は頼通ではなく、道長の意向を重視するようになるからだ。
頼通が頼りなかったのは、道長がそれだけデキる男だったからではないだろうか。「名選手、名監督にあらず」とはよく言ったものだ。
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