東洋経済オンラインとは
ライフ #紫式部と藤原道長が生きた平安時代

2回も暴力事件「三条天皇の子」に道長が取った策 外孫を皇太子にしたい道長、どう対応した?

7分で読める
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

INDEX

京都御苑(写真: シーサット・リー / PIXTA)
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第46回は三条天皇の皇子である敦明親王の素顔と、道長とのエピソードを紹介する。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

道長が敦明親王に「皇太子はムリ」といったワケ

藤原道長の傲慢な言い分には、三条天皇も我が耳を疑ったことだろう。退位を迫ってきて自分の孫・敦成親王を天皇に即位させようとしたばかりか、皇太子にも自分の孫を据えろと直接言ってきたのだ。

そもそものきっかけは、長和3(1014)年に2カ月連続で内裏にて火災が発生したことにある。

当時、天災は為政者の不徳に対する天罰だと考えられていた。そのため、道長は異母兄で大納言の道綱とともに「天道、主上を責め奉る由を奏す」(『小右記』)、つまり、「天が三条天皇を責めている」として、三条天皇に退位を迫るようになる。

翌年の長和4(1015)年には、三条天皇の眼病が悪化。諸国の国政に関する重要文書は「官奏」と呼ばれて、太政官から天皇に奏上されるが、それを読むことができなくなり、行政が停滞するといった事態まで起こり始めた。

2/4 PAGES
3/4 PAGES
4/4 PAGES

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

ライフ

人気記事 HOT

※過去1週間以内の記事が対象