道長は以前にもまして退位を促すようになり、長和4(1015)年10月2日には、三条天皇は周囲に「この何日か道長からしきりに譲位を迫られている」とこぼしている。
それだけではない。三条天皇には、娍子との間にもうけた敦明親王・敦儀親王・敦平親王・師明親王らがいたが、道長は「東宮に立てるわけにはいきません。その器ではない」と言い放ったという。
そのうえで、一条天皇の第3皇子で、自身の孫でもある敦良親王をプッシュ。天皇に孫の敦成親王を据えると同時に、敦成親王の弟・敦良親王を皇太子にしろ、と言い出したのだから、大胆不敵である。傲慢さここに極まれり。そう思われても仕方がない態度だ。
だが、少なくとも三条天皇の第1皇子・敦明親王については、かなり素行が悪く、道長の「その器ではない」という言い分ももっともだった。
暴力事件をたびたび起こした敦明親王
長和3(1014)年、道長が三条天皇に譲位を迫った年に、敦明親王はとんでもない事件を起こしている。6月に従者に命じて、加賀守・源政職を拉致。舎屋に監禁して暴行を加えたというから、穏やかではない。
また12月1日には、藤原公任の嫡男・定頼の従者と、敦明親王の雑人との間で乱闘騒ぎが起きた。敦明親王の雑人が死去してしまうと、敦明親王は定頼を殴ろうとしたという。このケンカについては、定頼に非があったとされているだけに、自分の雑人が殺されたとなれば、敦明親王も頭に血が上っても無理はない。
だが、皇太子にふさわしい人物かといえば、確かに道長が言うように「その器ではない」という気がしてしまう。眼病を患う身で道長と対峙しながら、息子の不祥事にも頭を悩まされた三条天皇が気の毒というほかない。
しかも、敦明親王は2度の暴行騒ぎの間である10月に第1皇子・敦貞が生まれて、父になっていた。もう少し自覚があってもよさそうなものだ。
敦明親王の第1皇子・敦貞を産んだのは、左大臣・藤原顕光の娘・藤原延子だった。
道長からすれば、さぞ脅威だったに違いない。もし、三条天皇が退位すれば、自身の孫の敦成親王が天皇に即位するところまではよいとしても、皇太子に敦明親王が立てられたとすると、展開が変わってくる。
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