敦成親王に何かあれば、敦明親王が即位し、皇太子に第1皇子の敦貞を据える可能性が出てくるからだ。そうなれば、自分の一族は、どんどん皇統から離れていくことになる。
自身の娘・妍子が三条天皇との間にもうけた子が、皇子ではなく娘だと知ると、道長はあからさまに落胆したというが、まさに道長にとって恐れていた事態が起きたといってよい。
それでなくても素行が悪い敦明親王を皇太子にすることだけは、何としても阻止したい。道長が次期天皇だけではなく、皇太子までも自身の孫を据えようとしたのは、そんな背景があった。
敦康親王の衣を脱がせる「乱痴気騒ぎ」
そんなふうに三条天皇の第1皇子である敦明親王を警戒した道長は、なかなか面白い行動に出ている。
長和3(1014)年10月6日、前述したように敦明親王のもとに、第1皇子・敦貞が生まれると、道長はよほど焦ったのか、その数日後の25日、道長の宇治邸において 敦康親王を招いての宴が開催されている。
そこで道長は、当時16歳だった敦康親王に衣を脱ぐように促すと、遊女に与えてしまった。そして「親王様も脱いだのだから」と、みなにも衣を脱ぐように言い、みな遊女たちにあげてしまうという、乱痴気騒ぎを起こしている。
そんな様子を藤原隆家から聞いた実資は「軽々の極みである」と苦言を呈したという。だが、道長はただふざけたわけではなかったのかもしれない。
NHK大河ドラマ『光る君へ』で時代考証を担当する倉本一宏氏は、このときの道長の行動について、こんな推測を行っている(『三条天皇』ミネルヴァ書房より)。
「皇位を諦めさえすれば、このように皇子を優遇するという事例を、三条や娍子にみせつけるという意図もあったものか」
この宴に「極めてよくないことだ」と憤慨した三条天皇は、その後も道長から執拗な攻撃を受けながらも、譲位と引き換えに、自身の第1皇子・敦明親王を皇太子に据えることに成功する。長和5(1016)年正月29日のことだ。
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