村上春樹『風の歌を聴け』が描く戦後日本の虚無感 「日本的なるもの」の喪失を描いた透明な文学
柴山:もう一つ思ったのは、急に世界が変わったなということ。この座談会では太宰から時代順に読んできましたが、見えてくる風景がどこか古いというか、今と違うところがあった。開高健を読んだときにはずいぶん古くさいなと感じたんですが、村上春樹で急に新しくなったというか、いきなり現代になったという感じがします。固定電話使ってたらいきなりiPhoneが出てきたみたいな感じで(笑)、たぶん今の若者が読んでもこれは「今」だっていう感じがするんじゃないかな。
藤井:でも、時代的には、そんなに変わらないでしょ、開高健の小説と。
浜崎:『輝ける闇』が1968年で、『風の歌を聴け』の約10年前なんですが、続編の『夏の闇』は1972年発表ですから、たかだか春樹の7年前ですよ。
藤井:しかも、『風の歌を聴け』が舞台は1970年ですよね、設定としては。
浜崎:そうですね。舞台は1968年の全共闘の騒動の直後です。
柴山:村上龍の『限りなく透明に近いブルー』に出てきた女の子って「昭和」だったじゃないですか。でも春樹のこの小説に出てくる女の子って、今のおしゃれな雑誌にモデルで出てきてもおかしくないような、それくらい登場人物の見え方が一気に変わった気がします。当時はもっと画期的だったんだろうと思いますね。それともう一つ、この小説のテーマを僕なりに読むと、これ結局「伝達」の物語なんですよね。
浜崎:おっしゃる通りです! さすが鋭い。
人に言えない何かを抱えた登場人物たち
柴山:伝えることの難しさをテーマにしている。一つは、小説家は読者に物語をどう伝えればいいのかという問題で、これは最初にハートフィールドという架空の作家を持ち出して長々と書いている。この時代に小説を書くことの困難さというか、作者が読者に何かを伝えるにはどうすればいいんだ、みたいなことが出だしから綴られている。
もう一つは、この小説に出てくる登場人物は、僕も、鼠も、小指のない女の子も、みんな喪失感を抱えていて、しかもその喪失感をうまく伝えることができない。この小説は会話が多く、しかも比喩とかたとえ話がよく出てくる。みんな会話を通じて何かを言外に伝えようとしているけど、伝わっているかどうか分からないままに物語が進んでいくんです。
登場人物の間に一定の距離が保たれていて、最後までなれ合わない。喪失や孤独を抱えた青年たちが、会話を繰り返すんだけど決して合一することなく、夏の2週間ぐらいですれ違って去っていく。変に分かり合わないというか、相手のことを分かったつもりにならないという距離感を保ったまま物語が進んでいくというところが、現代的だと感じる理由なんだと思います。
例えば、主人公の「僕」は3人目の彼女が自殺している。鼠はお父さんとの関係に何か問題がある。小指のない女の子も中絶するくらいだから相手の男と何かある──ちなみに、女の子がバーで倒れていて、その後鼠が「僕」をバーに呼び出したりしているところを見ると、相手の男は鼠なんじゃないかって気がする。
いずれにせよ、皆、人に言えない何かを背負っていて、だけど抱えている問題は重すぎるから簡単に言葉にできないし、なめらかな物語にも転換できない。でも何かを伝えたいっていう思いはある。そういう若者たちのもどかしさを、洗練された会話のスタイルで書いていくのが面白いな、と。しかも、その「伝達」の難しさを、小説家になった8年後の「僕」がさらにメタレベルで振り返るという二重構造になっていて、とても実験的な作りになっている。
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