村上春樹『風の歌を聴け』が描く戦後日本の虚無感 「日本的なるもの」の喪失を描いた透明な文学
「透明」に向かう80年代文学
浜崎:『風の歌を聴け』が書かれた時代の文脈整理から始めます。政治的騒乱と高度成長の60年代が終わり、70年代後半から次第に「白けた日常」が始まります。そこに登場してくるのが、そんな「白けた時代」の空気を反映させながら、しかし、対照的な「気分」を描いた2つの小説、村上春樹の『風の歌を聴け』と田中康夫の『なんとなく、クリスタル』でした。
ここでキーワードになるのが「透明」という言葉です。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の「透明」は、かろうじて「ブルー」なんですが、村上春樹の『風の歌を聴け』の「風」や、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の「クリスタル」には、やはり「色」がない。つまり「色のついた私」から「色のない私」へ、その「色」が抜けていくときの儚さや、切なさや、軽やかさといったものを描いたのが80年代前後の小説だったと言えます。
しかし、興味深いのは、それが90年代からは、次第に「耐えられない透明さ」に変化していくことです。つまり、「色のない私」に対する焦燥とか不安感が高まってきて、これが、あの酒鬼薔薇聖斗の「存在の耐えられない透明さ」なんかに繋がってくるわけです。
これを「対米従属」の視点から整理すると、要するに、対米依存による高度成長(対外的緊張・決断を他国に預けたままでの経済成長)によって、「日本的なるもの」がどんどん脱色されて「誰でもない私」(透明)になっていくことに対する奇妙な解放感と、しかし、それゆえの不安感とでもいった感情だと言えるのかもしれません。実際、80年代には、アメリカに対する負債感やうしろめたさはほとんどなくなっていますが、その点、今日取り上げる村上春樹は、まさに「透明である私」の空虛感を描いた作家であり、田中康夫の方は、「透明である私」の軽やかさや、明るさを描いた作家だと言えるのではないかと。
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