村上春樹『風の歌を聴け』が描く戦後日本の虚無感 「日本的なるもの」の喪失を描いた透明な文学
浜崎:まず、村上春樹ですが、阪神淡路大震災とオウム真理教事件のあった1995年に刊行された『ねじまき鳥クロニクル』あたりから、「透明」ではない「色」、つまり、日本の歴史的な負荷を積極的に描き始めることになりますが──本人は、それを「デタッチメントからコミットメントへ」というふうに言っています──しかし、それ以前の、初期・村上春樹は、よく言われるように、「歴史が終わった後の空虛感」とか、「後期資本主義社会の気分」とか、「大きな物語を失った後の日本人の孤独」とかいった感情を背景にしながら、「何かを喪ってしまった後のメランコリー」といったものを文学的主題としていました。
で、今日取り上げるのも、まさに80年直前の1979年に群像新人文学賞を受賞した、初期・村上春樹的の代表作にしてデビュー作である『風の歌を聴け』ということになります。
柴山:これデビュー作なんですか!?
浜崎:そうなんです。内容のない物語を、ただ「語り」によって支える技術には既に「成熟」を感じさせますよね。たぶん、この4人のなかで一番村上春樹が好きなのは藤井先生でしょうから、まずは藤井先生、いかがでしたか。
「逃げ場所」としての村上春樹
藤井:僕はできるだけ課題本を座談会の直前に読むようにしてるんですけど、この本は2週間前ぐらいに読んじゃって……そのとき、初恋の女の子と会ったような気持ちがあったんですよ。でも不思議なことに、今はそのときの気分はほとんどないんですよ。後で、なんであんなに盛り上がってたんだったっけと。それで今、改めてストーリーを聞いていて、またちょっと盛り上がるんですが。
逆に言えば、僕にとって村上春樹はそんな存在で、それ以上でもそれ以下でもないんですね。ただ初恋って、それでもやっぱり、すごい大きなことだと僕は思うんですよ。例えば、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読み終わった読後感も完全に初恋のそれだったんです。だから最も哲学的であり、最も宗教的なものは、身体的にいうと初恋なんですよね。それと村上春樹の小説っていうのは、完全に一緒なんです。
で、これどういう構造になっているかというと、まず、この対米従属文学論でずっと論じてきたように、我々が生きているこの戦後空間というのは、捕虜収容所そのものなわけです。でも、まだ若いうちは、ここが捕虜収容所なんだってことを知らない。だけど、とにかく周りにいる人たちが皆、目が腐った捕虜のような人々しかいないし、なんとも言えない腐臭がずっと漂っている。
そんな日本に対して、もう耐えがたいほどの違和感というか、とてつもない絶望感っていうのを、うんざりした気分を深く持ってしまう。だからそれに対して、村上龍の小説のなかで書かれてたような、ミサイルで世界を潰したいっていう願望が出てくる。『コインロッカー・ベイビーズ』の「ダチュラ!」ってやつです。だけど、本当は破壊なんてしたくないんですよ。だって、自分が生まれ育った地域や国のことをみんな、好きなんだから。そうしたらどうするかっていうと、もう「逃げる」しかないんですよ。
でも逃げ場所なんてどこにもない。
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