村上春樹『風の歌を聴け』が描く戦後日本の虚無感 「日本的なるもの」の喪失を描いた透明な文学

拡大
縮小

川端:そのこととも関係するんですが、春樹は登場人物一人ひとりの、人間としての全体像を描こうとしないイメージもあります。登場人物たちは盛んに何かを喋ってるんですけど、不思議と、その人物のバックグラウンドを読者に想像させないような力が働いていて、「いま喋っているこのセリフ」だけに注意が取られますよね。

その背景でどんな人生を送ってきたのかというようなことはあまり考えさせないような誘導が行われていて、別に悪い意味じゃないんですけど、個々の人物が持っているであろう多面性や歴史性は犠牲にして、特定の側面だけをいくつも繋いでいく形でストーリーが進んでいく。なんか、会話の部分が多いですけど、いきなり話が飛ぶやつも多いじゃないですか。

柴山:そういう飛び方は、なかなかうまいなと思ったんですけど。

絶望の果ての戦後論 文学から読み解く日本精神のゆくえ (クライテリオン叢書)
『絶望の果ての戦後論 文学から読み解く日本精神のゆくえ 』(啓文社書房)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

川端:これも一種のリアリティですよね。それから、さっきの自殺した彼女の話にしても、自殺の背景の描き込みは全然なくて、わずか数行で死んだ場面の説明が終わる。人物の全体像がないんです。一人の人間が持っている多面的な可能性を、わざわざまとめたりはせずに、一面だけを繋いだような人間関係が描かれているんですが、確かに現代はそういう社会です。

さっき柴山さんが「都市」とおっしゃいましたが、ジンメルの社会学で都市とは「日々出会う人々の大半が顔見知りではないような空間」であると定義されていたように、都市の生活というのは個々の他人の全体像を考えることがないものですよね。そういう意味での都市的な空間の雰囲気が正確に描かれていて、なんか「分かる分かる」って思うのが春樹の小説です。

「相対主義」としての人間関係

浜崎:皆さんが褒めるので、僕一人が孤立しそうですが(笑)、……ただ、先に言っておくと、僕の村上春樹評価というのも、藤井先生と同じで、完全に自分自身の「青春」と密着しているものなので、全く客観的な評価とは言えません。

だから、先に公平を期して言っておくと、皆さんがおっしゃるように、春樹の圧倒的な巧さには頷かざるを得ない。ものすごく実験的なのに、おそらく一度読み出すと止まらないはずです。まさに「都市生活者の自意識」をてこにして読者を物語世界にさらっていく力は並じゃない。

ただ、僕がどこに違和感を持っているのかというと、先ほど言われた「相対主義」とも関係しますが、やっぱり、春樹が決定的な場面で「他者」あるいは「葛藤」を回避しているところなんです。

浜崎 洋介 文芸批評家、京都大学経営管理大学院特定准教授

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

はまさき ようすけ / Yosuke Hamasaki

1978年埼玉生まれ。日本大学芸術学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了、博士(学術)。文芸批評家。京都大学経営管理大学院特定准教授。著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉 イロニー・演戯・言葉』『反戦後論』『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』『小林秀雄の「人生」論』。共著に『西部邁最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」』などがある。

この著者の記事一覧はこちら
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事
トレンドライブラリーAD
連載一覧
連載一覧はこちら
人気の動画
【動物研究家】パンク町田に密着し、知られざる一面に迫る
【動物研究家】パンク町田に密着し、知られざる一面に迫る
作家・角田光代と考える、激動の時代に「物語」が果たす役割
作家・角田光代と考える、激動の時代に「物語」が果たす役割
作家・角田光代と考える、『源氏物語』が現代人に語りかけるもの
作家・角田光代と考える、『源氏物語』が現代人に語りかけるもの
広告収入減に株主の圧力増大、テレビ局が直面する生存競争
広告収入減に株主の圧力増大、テレビ局が直面する生存競争
アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
  • シェア
会員記事アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
トレンドウォッチAD
東洋経済education×ICT