2浪「東大文1」30年前に地方から目指した彼の奮闘 東大試験でまさかの事態、どう挽回したのか

✎ 1〜 ✎ 74 ✎ 75 ✎ 76 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

中3のときに、またしても父親の転勤で、本渡市内の別の中学校に転校した田中さんは、ここで初めて1学年が35人×2学級という、複数クラスに分かれる経験をしました。

最高学年になった彼は、そのときに受けたある授業で知った事件から、大学の志望校を変える決断をします。

「公民で大阪空港公害訴訟のことを知りました。騒音の被害に耐えかねて訴えた人が大阪高裁では勝訴したのに、最高裁で夜間飛行の差し止め請求を却下。過去の損害賠償のみを認める判決を下したのです。その話を聞いて、私は『許せん!』と思いました。当時、私は権力を持つ悪いやつらが、弱い立場の者をいじめることに激しい怒りを感じていました。最高裁長官になって、正しい裁判を実現したいと思い、そのためには東大文一に入る必要があると思いました」

こうして勉強を頑張った彼は、なんとか熊本高校に入ることができました。

熊本高校に入った田中さんは、自宅から熊本市内までの通学で、片道2時間半ほどかかることから、下宿屋に住み、そこから学校に通うようになります。

「高校から歩いて20分ほどのところにある下宿屋さんに住んでいたのですが、夏休み期間は閉めてしまうのです。下宿生は地元に帰省するしかないので、部活には出られず、勉強するしかありません。そのため、休み明けの「整理考査(確認テスト)」ではいい点が取れました。英数国3科目だけですが、高2のときには1位を2回取れました」

高得点を叩き出したが、周囲からの妬みも

当時、ついたあだ名は「整理考査の田中」でした。しかしそこには「部活に出ないから、高得点は当然」、「理科・社会は負けるくせに」という妬みの気持ちが込められていた、と田中さんは感じていたようです。事実、5科目の定期試験や模試では、450人中、30位台にまで低迷していました。

必死に勉強していた田中さんでしたが、この当時、地方の進学校から東大の文系を目指すのは、とても大変なことだったようです。

「東大の入試の科目は、英数国と、社会科2科目がありました。当時の熊本高校の社会科の授業は、1年生は全員現代社会、2年生のときに世界史・日本史・地理の3教科を週2時間ずつ、3年生で世界史・日本史・地理から1科目選ぶという内容でした。

学校も3年生のときに日本史の補習をしてくれていたのですが、日本史の先生が嫌いだったことに加えて、当時読んでいたエール出版社の『私の東大合格作戦』に開成出身者が『真剣にやるなら世界史と地理を選ぶべきだ』と書いていたのを、鵜呑みにしてしまいました。そのため、3年生の授業1科目では、地理を受講して、世界史を独学でやるという決断をしてしまったのです」

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事