たとえば角田文衛氏は著書の『紫式部とその時代』に、こんなことを記しているのです。「平安時代には、自由恋愛が公然と認められていた。数々の歌集や物語の類は、それを証示して余すところがない」。
ただし、「普通に行われていたのは、親権者が命じたり、親や乳母が示唆したりする平凡な結婚」で、「それも親戚関係が意外に多かった」とつづく。
氏はさらに、「紫式部の場合なども、自由恋愛などによるものではなく、基本的には見合的な結婚であった」としています。そして、この件(くだ)りの最後を、こう結んでいます。
「その意味で、紫式部は未亡人になった後にも、自由恋愛への見果てぬ夢を心の隅に抱き続けていたのではないかと忖度されるのである」
角田氏はそこまでは書いていませんが、紫式部が『源氏物語』を著わしたのも、1つにそれが理由であり、主人公の光源氏に、「自分を託したのではないか」、つまりは一種の「私小説」をこころみたのだ、と私などは思うのです。
平安朝の恋愛・結婚の実態
平安時代の恋愛や結婚を、現代の物差しで測ることは出来ません。
手紙や和歌を交換しあったとしても、男が部屋に忍びこんでくるなどというのは、とんでもないことですし、今なら犯罪行為そのものでしょう。不倫に関しても、世間の見る眼は冷ややかで、発覚して問題化した場合には、法によって裁かれることとなります。
それが、平安時代はどうだったかといえば、別に法律があるわけでもなく、実にあいまいな感じです。現に、和泉式部は夫がありながらも、あからさまに不倫をしていました。しかも、その相手は親王だったりするのですから、なかなかのものです。
和泉式部は親から勘当されたり、周囲や紫式部らからの顰蹙(ひんしゅく)を買いましたが、不倫相手が早世したのちは、道長の勧めで、武人として誉れ高い藤原保昌(やすまさ)と再婚しています。
「いい男、いい女は、不倫しても当然ではないか」
天下人の道長がそう思っていたくらいですから、この時代の恋愛観はおおらかというか、多様な考え方を許容していたのかもしれません。
もちろん、異論もあります。
日本の古代・中世史に詳しい服藤早苗氏は、平安時代は前期と中期、後期に分けられ、前期は女帝もいたくらいですから、女性の地位や立場も高かった。しかし紫式部らの生きた中・後期になると、しだいに女性への締め付けはきつくなり、はっきり「男性優位」の社会になる、と言うのです(『平安朝 女の生き方』服藤早苗/小学館)。
同著には、こういうことも書かれています。
「10世紀初頭に成立した『伊勢物語』には、色好みの主人公が、人妻と語らう、すなわち性愛関係をもつ話がけっこうある。しかし、10世紀末から11世紀初頭に成立した『源氏物語』では、密通ゆえの苦悩がテーマになっている。『摂関政治』のころには、密通がタブー視されたことが知られる」
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